果てのない逃亡
突如として現れた黒髪黒目の青年に、ガディフは一瞬呆けたものの、すぐさま床を蹴った。
侵入者へ飛びかかったのではなく、壁に飾ってある剣をつかむ。
「どこから入ってきたのだ、貴様は!」
問いではない。事情を知らぬ誰かが客として通したのだろう。
屋敷の者たちがその声を聞けば、斬り伏せても侵入者を撃退したと理解するはず。
(頭をかち割ってやるわ!)
無表情を真っ二つにすべく、勢いよく振り下ろした剣はしかし。
「なにっ!?」
あろうことか青年は、片手の指二本だけで斬撃を受け止めた。
「ずいぶん動きが鈍っていますね。かつての面影がまるで……いや、前からたいしたことはなかったかな」
「ぐ、くぅ……、なんだ、この力は……?」
押しても引いてもびくともしない。
「貴様……マティス・ルティウスではない、のか……?」
よくよく見れば、枷たる首輪を嵌めていない。
「さあ? どうでしょうね。でも僕が誰かなんて貴方には関係ありませんよ。それより逃げなくていいのですか? 闇娼館とご自身をつなげる証拠の数々を、隠蔽しなくてはならないのでは?」
言われなくてもそのつもりだ。
だが目の前の男をどうにかしなければままならない。
慇懃でありながら冷たい無表情に、得も言われぬ恐怖が胸に渦巻く。逸る気持ちに動悸も激しくなり、脂汗を垂らす彼の耳に、妙な言葉が届いた。
「ご安心ください。僕は貴方のお手伝いに来たのです」
足元に円形魔法陣が浮かぶ。
ガディフは見たこともない文字や紋様に恐怖が募った。
光が二人を包む、そして数瞬ののち――。
荒野にいた。
上空に鳥が舞い、遠く連なる山々の形には見覚えがある。
「懐かしいですね。ここでの勝利が、劣勢の人類が魔王国に対し攻勢に出た第一歩でした」
そう、聖王国内への侵入を許し、滅亡の道へ突き進んでいた人類が、大規模な戦闘で初めて勝利した地。
これが幻影でないとすれば――いや、吹き抜ける埃っぽい風を受けているのだから、どう考えてもこれは……。
「転移、魔法だと……?」
底知れぬ魔法力を持つこの男が、最弱の賢者であるはずがない。
誰何したところで正直に答えるとは思えなかった。
「ワシを、どうするつもりだ?」
「言ったでしょう? 貴方の『逃亡』を手助けする、と」
まったく感情を顔に出さず、凍るような視線で告げるその言葉を、信用などできるはずがなかった。
しかしこれはチャンスだと、ガディフは内心でほくそ笑む。
ここからでは指示が出せないものの、部下たちは優秀だ。
特に長年仕え、魔族を利用する前は裏の仕事をこなしていた老執事。彼なら指示がなくともあらゆる証拠を消し去って、この身の潔白を捏造してくれるはず。
黒髪の青年は彼を気絶させるに留めていた。気がつけばすぐ異常を察知し、行動を起こすだろう。
「ああ、そうそう。後ろをご覧ください」
「後ろ……?」
正面に立つ青年を警戒しつつ振り向けば。
「――ッ!?」
声が、出ない。
それほどの衝撃をガディフは受けた。
すぐ近くに、先ほどと同じ体勢で横たわる老執事。それだけではない。
ガディフの腹心とも言える、魔族との関係を知る部下たちが点々と倒れていた。他にも護衛の騎士たちが十数名。
「どこから情報が漏れるかわかりませんからね。ほぼ全員を連れてきました」
「バ、バカを言うな! これでは隠蔽工作も何もできんではないか! いや待て。『ほぼ』だと?」
ざっと眺める中、何人か秘密を知る者が足りていないのに気づく。
しかも命令系統で言えば下に位置する者たちだ。独断で隠蔽工作を行えない者たちに限ってここにはいなかった。
「申し訳ありません。急ぐ中では全員の所在を把握しきれなかったものですから」
「嘘を吐くな! すべてを知ったうえで狙って連れてこなかったに違いないわ! 貴様、いったい何が目的だ? こんなことをして何をたくら――ッ!?」
冷徹なる視線に慄く。
(殺される……)
直感したガディフは、剣を握ったまま這うように老執事の下へ駆けた。
「お、起きろ! 起きてあやつをなんとかしろ!」
ぺちぺちと頬を叩くも、まったく反応はない。
パチン。
しかし青年が指を鳴らすと、みな一斉に意識を取り戻した。
「ふ、ははははっ。ずいぶんと自信があるようだが、不意をつけぬこの状況で、我が精鋭たちと一人でやり合えると思ったか!」
混乱している部下たちを鼓舞するように叫ぶ。
「あやつを始末しろ! いや、聖都へ何人か戻さねばなるまいな。拘束だ。腕の一本や二本は折っても構わぬ。やれ!」
状況を理解できない風の部下たちであったが、将軍に命じられて行動は早かった。
よく訓練されているのだろう。それぞれが役割をこなすべく、左右に展開して黒髪の青年を囲もうとした。しかし――。
「な、なんだ、アレは……?」
全員の足が止まる。
青年の背後、虚空に無数の円形魔法陣が浮かんでいたのを見て、だ。
「僕の目的を詳しくお話ししましょう」
無数の魔法陣が光を帯びる。
「ガディフ将軍、貴方は窮地に追いこまれ、聖都からの逃亡を図った。大きな幌馬車に主要な部下を乗せて聖都城門を突破し、追っ手を振り切り、まんまと行方をくらませたのです」
すでにジークがそう偽装して城門を通過している。
今ごろは追っ手が血眼になってガディフを探し回っているだろう。
「愚かにも魔族と通じた証拠は残したまま。貴方は未来永劫、大罪人の不名誉を背負って逃げ続ける。それが僕の描いたシナリオですよ」
魔法陣が一斉に輝きを増した。白く神々しい光とは対照的に、それらの中心からは禍々しいほどの黒弾が撃ち放たれる。
「ぐぎゃっ!」
「どわぁ!」
「ごべっ……」
黒弾は無防備な頭を吹き飛ばし、重厚な鎧を貫いていく。
ガディフ以外、その部下たちを蹂躙しつくした黒弾は、黒い炎となって肉のひと欠片も残さず燃やし尽くした。
「ありえ、ない……」
カランと手にした剣が滑り落ちる。
そう、あり得ないのだ。これほどの強さを持つ者は、ガディフの知る限り一人しかいない。
(ジーク、アンドレアス……)
どうにか声に出すのは堪えたものの、至高の賢者〝マティス・ルティウス〟の名と姿を騙る意味が理解できなかった。
「がっ、ぐあぁ!」
黒弾が四発、ガディフの四肢の骨を砕く。
ゴロゴロ地面を転がった彼はうつ伏せとなり、その体躯が黒炎に包まれる。
「ひぃ!? た、助けてくれ!」
縋るように声を絞り出すガディフに、ジークは相変わらず感情を顔に出さず告げる。
「安心しろ。お前は楽には死なせてやらん」
黒炎が衣服を燃やし尽くしたところで、ジークが指を鳴らす。黒炎が消え去った。
皮膚が焼け爛れた彼に、回復の魔法を施す。
わずかではあるが、火傷と砕けた四肢の骨が治った、ものの――。
「地獄の苦しみに、どれだけ耐えられるかな?」
ジークの存在感が希薄になった、直後。
ばさりばさりと、上空を旋回していた鳥たちがガディフに襲いかかった。
「まさか、生きたままワシを鳥にぃ!」
「ああ、食われて死ね」
ガディフは鳥たちが処理してくれる。ついばまれても意識を途絶えさせず、すぐ死んでしまわないよう、主要な臓器は守ってやる。
死んだ後は念のため骨を消すつもりだが、これで――。
ドノバン・ガディフは三つの大罪を犯しながら聖都から逃げ出した不名誉を背負ったまま、誰にも看取られずに死を迎えた。
稀代の卑怯者として、歴史にその名を刻みつけたのだ――。




