裁判長の末路
聖都の地下深く。
大罪人を収容する牢獄で、ダボンは腰を抜かしていた。五年前とさほど変わらぬでっぷりした体躯に、たっぷりのひげをたたえた老人だ。
「なぜ……貴様がここに……?」
黒髪黒目の青年が、無感情に彼を見下ろしていたのだ。
「久しぶりですね、ダボン公。ああ、今は爵位を剥奪されているのでしたか。領地も減らされ、後を継いだご子息はたまったものじゃないでしょうね」
口調は軽いがその顔には、なんの感情も貼りついていなかった。
「なぜ僕がここにいるのか、とは手段の話でしょうか? それとも目的を問うものですか?」
質問を質問で返しながらも、相手の返答にはお構いなしで続ける。
「いずれにせよ、貴方に語っても意味はない。だって貴方は――」
腰の後ろに手を回し、鋭利なナイフを取り出した。
「ここで自害なされるのですから」
「ごぁ……」
ずぶりと、白刃がダボンの喉を貫いた。そのまま横にナイフを滑らせ、鮮血が散る。
強烈な痛みが全身を駆け巡り、白目を剥いたダボンは薄れゆく意識の中で『死』を実感した――はずだった。
「へ? あ、れ……?」
急速に意識が戻り、自身の首に手を当てた。傷がない。ずきずきと痛みは残っているが、首はつながっていた。
「そう簡単に死ねると思ったか?」
冷徹な眼差しにダボンは顔を引きつらせた。
またもナイフが体を貫く。今度は腹だ。しかしナイフが抜かれるや、またも傷はふさがっていた。
「や、やめてくれ、治ったところで痛みはあるのだ。いや、それ以上の激痛が……」
刺されるたびに襲ってくる。
「だからなんだ? お前は見たはずだ。あいつの亡骸を」
最強の勇者〝ジーク・アンドレアス〟は魔族に殺された。その顔だけがわかるように、首から下を切り刻まれた無残な死体だった。
そう世間には伝わっているし、実際にダボンはその遺体を確認していた。
「わ、私ではない! 私がやったのでは――ぐぎゃぇ!」
今度は右肩。殺すつもりではなく、痛みを自覚させるためのものだ。
「お前ごときが実行犯になり得ぬのは当たり前だ。だがお前がそいつらを手引きした者の一人なのは間違いあるまい? 同じく計画を主導した、お友だちのギュスターが言っていたぞ?」
「ギュスター、卿……。まさか奴の死は貴様が!?」
三年ほど前、至高の賢者が辺境送りになって半月後に、中堅貴族のギュスター子爵が鷹狩り中に惨殺された。
不審な点は多々あったものの、獣に食い荒らされた跡から事故死と結論付けられる。
「あの時は失敗したな。首謀者の情報を得て高揚してたんだ。だから回復がおざなりになってしまった。もっと苦しませてから殺したかったのに」
ダボンは焼きごてを当てられたかのような熱を感じながら、全身が凍えるほどに寒かった。
喉がからからで咳きこむたび、右肩から全身に激痛が走る。
(どうせ、私は処刑されるのだ……)
苦痛の中にあってなお、彼は自身の名誉をいかに守るかに頭を回していた。
自殺に見せかけられるなど、絶対にあってはならない。
処刑される者が獄中で自殺するのは罪を認め、迫る死の恐怖から逃れる恥ずべき行為だ。
貴族ならばなおのこと。死後も臆病者の謗りを受け、末代まで笑われる。
だが、その心配はもうないと安堵した。
(このように服を破き、血を噴き出しては、自殺に見せかけられまい)
たとえ傷を治したとしても、不審な点があれば他殺を疑う。
そうなればむしろ好都合だ。
獄中で何者かに殺されたのなら、自身は無実の罪で収容されたと家族や腹心たちが声高に主張してくれるはず。
(ふん、怒りのあまり腹や肩を刺したのは貴様の失態だ)
ダボンは内心でせせら笑うも。
「おい、口元が歪んでいるぞ? 大方、自殺に見せかけるのは不可能だとでも思っているのだろうが、残念だったな。替えの囚人服はくすねてあるし、血の跡もきれいさっぱり消しておいてやる」
いつの間にか取り出した大きな貫頭衣をひらひらさせる。
「最後は傷をすべて治し、舌を噛み切らせておけば誰も自殺を疑うまいよ」
さぁっと血の気が引く。
このままでは獄中自殺という不名誉と、死ぬより辛い責め苦を受けてしまう。
(いや、まだだ。まだ終わってたまるものか!)
ダボンは起死回生の秘策を思いついた。
決定的な交渉材料。
ギュスターでは知り得ない情報を、自分は持っていることに気づいたのだ。
「待ってくれ。貴公はギュスターから情報を得たと言ったが、奴は我らの中でも末席の使い走りだ。計画を主導した中には奴めも知らぬお方がいる。その人物を教えるから私は見逃してほしい」
まくしたてるダボンは止まらない。
駆け引きなど頭になかった。早くすべてを吐き出して、確証もないのに彼の温情に縋りたかった。
この場を切り抜けさえすれば、処刑台に上がる前に至高の賢者の襲撃情報と引き換えに命がつながる。自身の不正も彼に押しつけ、その後に彼を葬り去ればすべてが元通りになるのだ。
そんな浅ましく浅はかな妄想まで広がって、薄笑いさえ浮かべていた。
「私は命令されていただけなんだ。その人物とは――」
しかし目の前の青年はその言葉を容易く遮った。
「聖王だろ?」
「――ぇ……?」
ダボンは笑みを引きつらせる。
「奴も俺の復讐リストに載せてある。いずれ地獄で会えるだろうさ。文句があるならそのとき直接言うんだな」
「どう、して……?」
「俺が知っているかって? 直接お前たちを襲うのはギュスター以来二度目だが、三年も俺が何もしていないとでも思ったか? 調べは尽くした。そのうえでの推測だが、お前の顔を見る限りは当たっていたようだ」
この国の象徴にして最高権力者まで復讐の対象としている青年に、ダボンは絶句する。
「残念だったな。取って置きの交渉材料だったんだろ?」
ナイフを抜くとくるくる弄び、ダボンの太腿に突き刺した。
「ぐぎゃぁ!」
「そら、聞くに堪えん悲鳴ではなく、有益な情報を話してみろよ。俺が知らないことがあれば、多少は温情をかけてやるかもしれんぞ?」
ダボンは声がかれるほどに叫んだ。首謀者の名前、その思惑、さらにはまったく関係ない貴族間のいざこざなど。
「残念、それも知ってるな」
中にはジークの知り得ない有益な情報もあったがお構いなしで、各所を滅多刺しにしては回復させた。
この男にかける温情など、初めから持ち合わせてはいない。
魔力は尽きず、庵に残したフェリの変身が解けるその時間まで、ダボンを切り刻み続けた。
かつて親友が魔族たちにされたように――。
翌朝、朝食を持ってきた看守がダボンの遺体を発見する。
彼は舌を噛み切っていて、囚人服には口からの血が付着しているだけだった。
ひと目で自殺と判断される。
牢の床や壁に塗れていたはずの、おびただしい血の跡もきれいに消え去っていたのだ――。