プロローグ ー今更 その1ー
「お嬢様!お嬢様!」
けたたましい大勢の叫び声が、二千坪の敷地に、一階の平面積800坪、三階建延面積2300坪を誇る中臣邸に響き渡っている。
「瑠璃華は一体どちらなのです?」中臣家現当主治晃の妻君である楓の怒りを含んだ声が使用人たちを一層焦らせていた。
治晃は、飄々とし、学者然とした穏やかなひとで、恐らく誰も怒る様を見たことがない。
対して、夫人である楓はエキセントリックな、いかにもアメリカ育ちの、決して感情を隠す事も繕う事もしない、直情径行のわかりやすい人で、気も短く、それがヒステリックではない故に、尚更皆に恐れられていた。
姑である浅葱には、嫁ぐ前から気にいられていない。
しかし、今は亡い前当主である治延が楓の父と中学時代から大学迄を共に過ごした学友で、楓が幼少の頃からよく知っていた為、望まれて嫁いで来た。
因みに楓の父は外交官であった。
「瑠璃華は何故、戻らないのです?学校からは、帰ったのですか?」
楓の問いに、
「はい、15時23分に確かにお屋敷迄お送り致しております。」運転手の荒木が答えた。荒木は中臣に仕えて30年になり、祖父の代からで、3代目である。
何故、皆が騒いでいるかと言えば、今日は、一人娘である瑠璃華の婚約者である英家より結納が届けられる事になっていた。
何故、平日の夕方かと言えば、英家の当主が、高齢である為昨日一時帰国した孫の亮輔に1日も早く家督を譲る為、の布石だが、横槍が入るのを嫌った故だ。
亮輔の両親は、彼が大学を終え、ハーバード大学の大学院に進んで間も無く事故で逝去している。もう、9年も前になる。
亮輔は、両親の葬儀で帰国しただけでそれ以降、一度も帰国していない。
つまり、7歳の瑠璃華しか、知らないのだ。
彼は医師の道を選んだ。英財閥の一人息子でありながら。
故に、瑠璃華との婚姻、と言うよりは、中臣家との閨閥を強く望んだのは、祖父が孫と英家を慮った結果だ。と、言っても婚約したのは瑠璃華が生まれて間も無くのことだった。それは、中臣に100年ぶりに誕生した姫故に、その誕生を聞きつけ早くも婚約を取り付ける為に行列が出来た程だったのだから。
つまり、瑠璃華は、思うのだ。わたしが、子豚でも、もしかしたら、中臣の娘だと言えば良いのだろう、と。皆、同じような喪失感をあじわっている?そうなのだろうか?
そうかも、知れない。
けれども、そうでない、かもしれない。
ふたりには何の感情もありはしない。と、言うより、恐らく街ですれ違ってもお互い素通りしてしまうであろう程に希薄な、関係である。
ーそれは、寂しいか?
恐らく、寂とした感は、否めない、と瑠璃華は思っている。
父と母は、面白い夫婦だが、それなりに仲がよく、なるべくしてなった夫婦だと娘ながら思われる。
見合いでも、そう、決められた抗う事の出来ぬ結婚であったとしても、子供じみていると笑われようと、幸せでありたいだけだ。
そんな事を、瑠璃華は天丸と地丸の側で考えていた。