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社交シーズンがいよいよ本番を迎えた。
ミルデハルト伯爵邸でも毎日のようにお客様がやって来る。事前の説明のとおり、シュリアも何度かお客様の案内を任された。
身なりにも気をつけろと先輩から言われたとおり、結い髪が崩れていないか鏡を確かめる癖もついた。エドルフら庭師が気合いを入れた庭園も、原色に近い鮮やかな花々が咲き誇る。
先日、伯爵夫人が開いたお茶会に集まったご婦人たちは、この暑さの中でも生地の多いドレスを着て、汗ひとつ流さず涼しげに笑っていた。夏なので生地は薄く、装飾が少ないと聞いても感嘆したものだ。
美しいドレスを見れば、やはり、心が弾む。
初めて迎えた社交シーズンに、メイドでありながらシュリアも浮き足立っていた。
しかし、楽しいのはそこまで。
夕刻の鐘がうっすら聞こえても、今夜の夜会に向けて帰る者など誰もいない。細々した用事に走り回るシュリアも例外ではなく、明かりが灯された廊下を見てやっと時刻を悟った。
外は夕闇。
通りがかった侍女から、裏に引き上げるよう指示される。
(いけない、お客様がいらっしゃる時間なんだわ)
この後は厨房に入る予定だ。今日ばかりは汚れが目立つお仕着せも、着替えたところで無駄だろう。
シュリアは、足早に廊下を抜けた。
ミルデハルト伯爵家がシーズン始めに唯一開催する夜会は、一般的には小規模な、親しい貴族だけを招いたものと聞いていた。
しかし、一人を招待すれば同伴者だ従者だ侍女だ御者だと否応なく人が増える。普段が静かな屋敷だからこそ、高貴な方々のさざめく喧騒が厨房まで聞こえてくるようだった。
もちろん、厨房の派手な喧騒で上塗りされ、悠長に耳を澄ましている暇はない。
「檸檬水用の檸檬、誰が使った!」
果物ばかりが積まれた一角で、空の木箱を掴んだ料理人が怒声を上げた。芋を洗っていたシュリアも、声につられて顔を上げる。
作り置きすると酸味がきつくなる檸檬水は、冷たい水と輪切りの檸檬でその都度作らなければならない。用意していた肝心の檸檬がごっそりなくなったと怒っているようだ。
今まさにナイフを入れようとしていた別の料理人が顔色を変えた。
「お、俺だよ! 追加で前菜を頼まれたからちょっと貰っただけさ!」
「前菜の皿で、どれだけの檸檬を使うつもりだ!」
「知らねえよ! 一個しか貰ってねえよ!」
どうやら、犯人は他にもいるらしい。
「そんなことより、早く追加をお願いします!」
厨房の戸口に立ったメイドが、苛立ちを露わに割って入った。
空箱を握りしめていた料理人も我に返ると、臨時メイドの一団に向けて、倉庫から新しい檸檬を持ってくるよう声をかける。
「あ、じゃあ、行ってきますね」
迷わず立ち上がったシュリアは、本日既に何往復したか分からない倉庫へと飛び出した。
夜会が開かれている大広間の明かりも届かず、星の瞬きだけが頼りの裏道は別世界のようだ。
(月のない夜は…四代目のご当主様の瞳が…)
いや、あれは冗談だ。絶対に。
唾を飲んで雑念を振り払う。今は夜会の最中で、檸檬の調達という重要な任務中だ。
いくつか並ぶ倉庫の一つが食品庫である。季節柄、ほとんどの食材は食品庫の地下に掘られた石室で保管されている。そのため、今日だけは施錠されていない。
中に入って小さな明かりを灯すと、目的の場所はすぐ分かった。
(箱ごと持てたらいいんだけど…)
どうせなら一度にたくさん運びたいが、力のなさは自負している。
それでも、持参した籠に山盛り積んで、早々に食品庫を出たところで。
(人の声?)
隣の倉庫から、途切れ途切れに低い声が漏れていた。食品庫の隣は小麦の備蓄庫だ。こんな時間に出入りの必要があるとは思えないし、しかも、施錠されていたはず。
来た時には気付かなかった異変に、身を固くした。
声は男のものだろう。所々に苛立ちが表れている。その様子から話し相手もいるようだったが、別の声は漏れてこない。
こんな暗がりで逢い引きなど見つかったらどうなるか分かったものじゃないと、頭の天辺から警鐘が鳴り響いた。
音を立てないように歩くか、走って逃げ切るか、食品庫に隠れるか。
(ここは、食品庫でやり過ごすのが正解よね)
再び食品庫に戻ろうと振り返り際、男の怒声が耳を打った。
(まずい!)
思わずびくんと手元が揺れて、積み上げた檸檬が数個、止める間もなく落ちてしまった。