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カイナルは、明日の予定でも話していたのだろうか。
そう感じてしまうほどに何の気負いもなく簡単に吐かれた言葉が、意味を為さずにぐるぐる回る。
(つま、つま…妻?)
頭が使い物にならない分、足は元来た道を自然と戻った。
市街地側の土手、歩道からは死角となる常緑樹の陰に連れ込んで。
「適当なことを言わないでください」
感情を殺して抗議した。
「適当なこと、とは?」
「嫁にする用意があると、おっしゃったことです!」
深い呼吸の甲斐もなく、語尾は興奮で跳ねた。
そんなシュリアを前にしても平然としたカイナルは、合点が行ったとばかりに安堵しただけだった。
「ご予定がないならば、問題はありませんよね」
「ええ、問題は…」
聞いたこともない屁理屈に流される寸前で。
「大いに問題です! 私にだって許せる嘘と許せない嘘があります!」
はっとして踏ん張った。
強引なだけではない。ちゃんと声を上げなければ事情を察してなどもらえない。
(ちゃんと言わなければ!)
迷惑なのだと。
「私は!」
「撤回はしません」
意を決して告げる前に、悪びれもせず、堂々とした宣告が立ち塞がる。
音を立てて、勇気が萎んでいく。
「…何を口走っているか分かってますか?」
「もちろんです。許婚でもいるならば話し合うつもりでしたが、本当に安心しました」
無駄な争いは避けたいですから、と。
無駄の意味を尋ねるのも恐ろしい笑顔で。
(この人、どうしてしまったのかしら)
いつもの強引さとも、何かが違う。
おかしな風向きに後ずさったシュリアは、世迷い事を迷いなく喋るカイナルを奇異の目で見た。
「例の件は、神に誓って他言しませんよ」
「色々と誤解を与えてしまったのは、私が順番を誤ったせいですね」
声は、何十匹もの虫を一度に噛み殺したような、何とも言えない苦々しさだ。
「平民が貴族に嫁ぐのは、無理ではないが確かに難しい。王宮騎士団との縁も切れたことですし、私が家を出る方が早いでしょうね」
厄介で面倒な手続きが絡む爵位の返上ではなく、三男坊が平民に下る程度なら容易いことだ。
その点については心配無用と、爽やかに言う。
(私の話をしているのよね?)
カイナルの瞳は変わらず黒い。
魔力を掛けられた訳でもないのに茫然と聞き流していると、現実味のない嘘が徐々に立体感を帯びてきた。
「あなたと交わした約束は、何一つとして忘れてはいませんよ」
(約束?)
昨日のカイナルに打ちのめされた、あれのことだろうか。
王城前の石畳を、今度見に行ってみましょうという。
(まだ有効だったのね)
色々な事件が起こり過ぎて、もう何年も昔の話のようだ。
「我々の始祖は、ほんの目の前で最愛の女性を失いました。あと一歩近ければ絶対に守れたのに。あの人だけが生きる理由で、世界そのものだったのに。到底、その死を受け入れることなんてできなかった」
死んではいない。どこかで必ず生きている。
生きて、俺を待っているはずだから。
カイナルの眼裏に、赤く染まった絶望の瞬間が蘇る。
「それが、あなたの魂のずっと昔の持ち主です。この世界のどこかにいるあなたに、必ず会いに行くと誓ったのです。だからどうしても、生き続ける必要がありました」
淡々と響く音が、季節外れの粉雪のように胸に落ちる。
落ちる。
落ちて、空っぽの記憶の底で蒸発する。
(…私の魂、ですって?)
まるで捕食者の気配を察した兎のように、シュリアの耳がぴんと立った。
粉雪はやがて本降りとなり、いずれ雪責めにされるのだろうと、恐ろしい未来予想図が頭を過ぎる。
「あなたの存在は呪いそのものであり、我々が求めた唯一の光なのです」
ミルデハルト伯爵家の禁忌は他人事ではないのだと、呪いに縛られた男の悲痛な声がシュリアの無知を暴いた。
(…やっぱり、そういう事なのね)
あなたの魂のずっと昔の持ち主などと、意味深に言われたときから展開は読めていた。
そうでなければ、度を超えた過保護振りに理由が付かない。
信じるかどうか、事実かどうかは別として。
(いちよう、信じてはいますけれど)
そんな風に救いを求めて見つめられても。
(ちょっと待ってください)
差し伸べる手はない。
だってシュリアの魂は、広く一般的にそうであるように、神の御許で白い炎に浄化されたのだから。
本当に生まれ変わりだったとしても。
(それ、私に責任が求められる話ですか?)
胸の奥深く、分からないほど遠い隅っこの方にカイナルへの好意は欠片ばかり残っているけれど。
だからと言って、巻き込まれる理由などどこにもないのでは。
「何百年と無為に過ぎて、ようやく奇跡が訪れました。死出の旅立ちを心待ちにしていたある老人が、幼いあなたに出会えたのです」
覚えていらっしゃるでしょう、と。
一方的に説明を続けていたカイナルは、本当に嬉しそうに頬を緩めた。
その脳裏には、一体どんな記憶が映し出されているのやら。
雰囲気の変わりように意表を突かれ、浮かび上がった面影に愕然とした。
(そんなはず…)
柔らかく細められた眼差し、あるはずのない皺。人生の終着駅に辿り着いた老人の顔が、今やはっきりとカイナルの首に繋がっているではないか。
(いやぁぁぁっ!)
青い瞳が見え隠れしている。
これは魔力だ。魔力の為せる技だ。絶対そうだ。だから決して怪談ではない。断じて、ない。
シュリアはそう納得させて悲鳴を飲んだ。




