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「ナリージャは、「歴の書」を奪うよう何者かに誘導されていました。あなたが見たのはその指示を塗り替えるところで、彼女に記憶がないのは記憶を封じる誘導まで仕込まれていたからです」
「それは、魔力?」
「残念ですが、痕跡は把握できませんでした」
書庫に飛び込んだ瞬間、カイナルには怒りしかなかった。
どうせナリージャはただの駒。
しかし、万一にも誘導が息を吹き返せばシュリアに危険が及ぶ。可能性の芽は摘まなければならない。
ミルデハルト伯爵家に「歴の書」は存在しないと、誘導を上回る強引さでナリージャの意識に焼き付けた。
咄嗟の判断に後悔の余地はない、が。
「カイナル様の他にも、その、そういう力を持つ人がいるのなら、大変なことですよね…」
冷静に真っ当な意見を述べられて、カイナルは微妙に顎を引いた。
ナリージャの誘導は、十中八九、魔力によるものだろう。シュリアの言うとおり、王族か新たな人物か、誰が背後にいても大問題である。
さすがに、騎士として失態を犯した認識はある。
我を失くし、勢い余って昏倒させたくらいだ。本来なら求められる魔力の追跡など、微塵も思い浮かばなかった。
「我が国は転換期にあります。王家の在り方も「闇の光」の主張も考えさせられるところではありますが、我々の存在意義を曲げてまで国をどうこうしようとは思いません。そんな余力など、どこにもありませんから」
むしろこれ以上巻き込まれなければ良いと、シュリアを見ながら言う。
それが本心だと、重なった視線で訴えられては。
(都合良く考えてしまいそうで、嫌)
国の大事がかかる究極の場面ですら、乙女心という厄介な感情は勝手に動き出す。
カイナルの心配に、胸がくすぐられている場合ではない。
(境界線、境界線をちゃんと思い出して)
お忍び用のドレスさえ慣れない自分とは、住む世界が違う。
(存在意義を曲げてまで、か)
平民には平民としての、カイナルにはミルデハルト伯爵家の血を継ぐ者としての。
願いを叶えるためだけに、彼らは呪いを継いできたのだから。
(…え、呪い?)
シュリアは、ようやくここで気付いた。
(絶対聞いちゃいけない伯爵家の秘密じゃない!)
まんまとやられてしまった。
(巻き込まれなければなんて言いながら、しっかり自分が巻き込んでるじゃないの!)
以前から思っていたが、ただの平民に対して余計な情報を与え過ぎだ。自ら危険に晒すようなものだと、絶対に分かっているだろうに。
「それにしても、制帽がない世界は眩しいですね」
疑惑をやんわり否定したカイナルは、それで満足したのか、表情を緩めて話題を変えた。
シュリアを写す瞳は、言葉どおり眩しそうに細められている。
(そんな顔しても誤魔化されないわよ、この確信犯め!)
悠長な天気の話になど付き合うものかと、しばらくは唇を噛み締めていたものの。
「…今日は、制帽で隠さないんですね」
いつまでもにこやかに返事を待ち続けられて、罪悪感に負けた。
恵まれた容姿は、それだけで圧力になる。
何だろうか、ひどく理不尽だ。
「一度大きな力を使ったことで、体に呪いが馴染んだようです。思いもよらず発動することはなさそうなので制帽は止めました。元々、ファビエル=ランド=ミルデハルトの足元にも及ばない微弱な力ですしね」
気付けば随分伸びた前髪が、額に落ちて陰を生む。
ふとした瞬間に、グレイドにも似た大人の色気まで漂うのだから、これで三つも年下なんて誰が想像できようか。
(帽子野郎、と言われてしまったのよね)
ドービスから聞かされたときは、的確な表現に喝采を送ったりもしたが、今となっては揶揄されたのが嘘のようだ。
王宮騎士団の看板がなくても、結婚相手は選び放題に違いない。
「カイナル様がいつまでも心安くいられるよう、祈っています」
両手を胸の前で組み、僅かに目を伏せて。
別れを告げるような口調に、カイナルが何か言いかけたとき。
「シュリア!」
すぐ近くで、悲鳴じみた甲高い声が上がった。
叫ぶときですら歌い手のような透明感を残すこの声は。
「ね、姉さん!」
シュリアが振り返りきる前に両肩を掴み、力技で向き直らせ、がくがくと揺さぶるのはリーリアだ。
「どこのお嬢様かと思えばあなたの声じゃない! 心配したのよ!」
舞台役者もかくやの、悲壮感溢れる顔をして。
「姉さん、落ち着いて!」
「落ち着いているわ!」
ザックハルト子爵家の優秀な侍女も、まさかこんなに頭を揺らすことがあるとは想像だにすまい。綺麗に結われた髪がはらはらと落ちた。
こめかみの傷は、縫って薬で散らしただけで塞がってはいない。そのせいか、吐きそうなほどに視界が回る。
「リーリアさん、その辺りで」
見かねたカイナルが、横から強引に引き剥がすと。
リーリアは、往来のど真ん中で外面をかなぐり捨て、噛み付かんばかりにカイナルを睨みあげた。
「うちの馬鹿ルミエフも大概だけど、あんたたちは平民を何だと思ってんの? こんなドレスでも着せてやれば、何だって許されるって?」
荒んだ言葉遣いは、こちらが地だ。
馬鹿にすんじゃないわよと、唾を吐く。
(何てことを…)
女性として到底あり得ない粗野な態度に、諫める言葉は喉の奥で固まった。
なまじ普段の猫が愛らしいだけに、三番目の兄よりひどい有り様だ。
(さすがにこれは…)
この暴挙は擁護できない。基本が穏やかな気質のカイナルでなければ、即刻手打ちにされても不思議はない。
(いくらカイナル様でも)
恐る恐る隣を見上げると、あからさまな敵意に出方を迷っているようだ。
(よ、良かった)
温度のない無表情だが、怒りの気配は感じない。
「二度ならず三度も嫁入り前の女に傷を付けて、どうしてくれんのよ!」
足元には、パンの包みが納まった籠が放り出されている。配達中の大切な商品を地面に置くほど、姉の逆鱗は何に反応したのだろうか。
静観していたカイナルが、似たような表情のシュリアに小声で尋ねた。
「近く、嫁がれるご予定が?」
「…ありません」
尋ねるべきはそこなのか。
東部地区の平均的な結婚適齢期真っ只中にいながら、その予定がないと自白させられたシュリアは、気付かれないように一歩引いた。
聞きようによっては失礼極まりない質問をしたにもかかわらず、安心しましたと僅かに口角を上げると。
「怪我を負わせてしまったのは我々の落ち度ですが、妻になっていただく用意はありますのでご安心ください」
カイナルは、至極真面目に言い切った。
路上の喧騒が遠ざかり、三者三様の沈黙が落ちる。
(今、何て言った?)
どこかで血の気が引く音がする。
(つま?)
未だ言葉を咀嚼できないリーリアを置いて、カイナルを引き摺るようにその場を逃げ出したのだった。




