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子爵令嬢のお忍びドレスは、東部地区に入ると思い切り浮いた。
ザックハルト子爵家の侍女に嬉々として髪を整えられたものだから、辟易するほどに浮いた。
向けられた好奇の目を、会話に集中することで振り払う。
話題はもちろん、事件の解明状況だ。
「ナリージャ様が何も覚えていらっしゃらなけらば、難しいですよね」
「あなたに怪我まで負わせてしまったのに、申し訳ありません」
意識を取り戻したナリージャには数日前からの記憶がない。王城の一角で始まった近衛隊の取り調べにも答えられず、泣き出してしまったそうだ。
あの俺様貴族は、女であろうと格下の相手に容赦はすまい。
「きっと、恐ろしい思いをされているでしょうね…」
「あなたを襲った相手ですよ」
「でも、記憶がないのでしょう? ナリージャ様は、好んで荒事を起こす方ではありません。本意ではなかったのです」
ナリージャの今後を思えば、擁護の言葉は自然と出た。あの時の本人を見ているから尚更である。
それが予想外だったらしく、しばらくカイナルの反応はなかった。
妙なことでも口走ったかと戸惑うシュリアに、曖昧に微笑むことで持ち直したようだ。
「無関係とも断定はできません。彼女が不審な集まりに顔を出していたと証言があり、本人も認めています。曰く、唯一の居場所だったのだとか」
お屋敷勤めが辛かったと嗚咽するナリージャから、詳細を聞き出すには時間がかかった。
ようやく集会場所に突入したところで、先手を打たれたかのようにもぬけの殻。僅かな形跡もなく消えてしまっていたのだ。
大方、耳障りの良い言葉を吹き込み、すっかり傾倒した心に付け入ったのだろう。
その集団こそが「闇の光」と睨み、王太子近衛隊が逃げた足取りを追っている。
「ナリージャ様が、伯爵家の秘密を何か喋っておしまいに?」
「だとしても、血の繋がりさえ危うい傍系ですから有益な情報ではないでしょう。せいぜい伯父が襲われた件くらいではないでしょうか」
「え?」
事件捜査も担う騎士団では、いかなる場合にも証拠のない憶測は挟まない。その鉄則を熟知するカイナルが、珍しく想像で語ろうとしている。
(魔力で感じるものがあったのかしら)
聞き漏らさないよう耳を澄ました。
「あの騒動の本当の狙いは、サリエル男爵でしょうね」
「ええっ?」
確かに、誰よりもひどい怪我を追ったのはサリエル男爵である。にもかかわらず、軽傷で済んだミルデハルト伯爵が狙われたと結論付けられたのは、「歴の書」に絡んで伯爵家が狙われるという先入観が近衛隊にあったからだ。
「あなたは普段、書庫の鍵を、誰から受け取って誰に返しますか?」
「鍵ですか? それは、朝も夜もサリエル夫人に…」
「書庫の鍵は二本あります。一本は当主の管理下にあり、あなたが使っている鍵は執事が管理しているものです。便宜上、執事の鍵はサリエル夫人が預かっていました」
犯人は…と言うよりナリージャは、鍵の持ち主をサリエル夫人と認識していたのではないか。
疑う様子もなくカイナルは語る。
「夕刻の鐘が鳴れば彼女も屋敷を出る訳ですから、事を起こしやすいのは仕事終わりの前後です。鐘が鳴る前なら鍵は開いているし、僅差で施錠されても、サリエル夫人がいなければあなたの手元に鍵が残る」
「いいえ。サリエル夫人がご不在なら、執事様にお返ししますよ」
大切な鍵を、シュリアの責任で保管する訳がない。
そもそも、サリエル夫人が屋敷を外すこと自体が少ないのだ。外出してもすぐに戻れる範囲内で、朝夕は必ず中にいた。それでも滅多にない休みの日には、執事と鍵をやりとりしている。
それを聞いてなお、カイナルは、昨日が社交シーズンの最終日であることを指摘した。
そんな日に侍女長が休むと思うだろうかと。
「世間知らずな令嬢の浅知恵です。彼女にしてみれば、厳格なサリエル夫人は十分に恐怖の対象でしょう。その大きな障害さえなければ…あなた一人なら何とかできるとでも考えたのでしょう」
あくまで想像ですがと、話をまとめて。
言葉の端々に本気の忌々しさを滲ませ、そこにナリージャがいるかのように宙を睨んでいる。
(そうなのかしら…)
シュリアが断言できるのは、昨夜のナリージャが正気ではなかったことと、普段の様子を鑑みれば詰めの甘さに納得できるということだ。
カイナルの想定は、おおよそ真実を突いているように思われる。
しかし、素直に頷けない。
「いくら箱入りのお嬢様だとしても、そんなに簡単に…」
誰が、ナリージャの正気を奪ったのか?
くすぶる疑念が、よく考えろと告げている。
王家が高々と掲げる為政者の正当性はとっくに瓦解している。そして、「闇の光」が主張する王家転覆の理屈が正しいことを、誰より知る人物ならここにいる。
(カイナル様は、伯爵家の例の書が「歴の書」ではないとご存じだし、前にお尋ねしたときも、私を守るとおっしゃったわ)
どう否定しようとも。
自我を奪われたナリージャの背後には、人知を超えた力がある。
「簡単に、操るようなことが…」
(そんな力は、カイナル様くらいしか…)
疑われていると察したカイナルは、しばらく考えて慎重に答えた。
「…できなくはありません。ただ、大陸諸国には、魔力がなくとも似たようなことを可能にする技術が存在します」
魔力以外の不思議を認めないライナルシア王国では、王家の魔力を尊ぶが故の弊害が浮き彫りになりつつある。
カイナルが挙げた技術はもちろん、近代文明の発展も大きく遅れを取っていた。
シュリアも、自国の排他的な風潮は良く知っている。
ただ、それ以上に心当たりがあった。
「助けてくださったとき、魔力を使われましたよね」
最も身近な原因を探れば。
あの時、ナリージャの意識を飛ばすほど顔面を鷲掴みにしたカイナルが、記憶を操ったのではないかと思うのだ。
魔力とやらが、そんな恐ろしいことまでできるのならば。
(カイナル様こそ…「闇の光」なの?)
信頼関係以前の、あらゆるものを瓦解させる問いかけが胸に湧く。
果たして口にできるだろうか。
指先は冷たく、唇は動かない。怯えた表情から、恐らくもう、言わんとすることは伝わっているだろう。
「…お気付きでしたか」
カイナルが苦笑いを浮かべた。




