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 そこに、入室の許しを乞う聞き慣れた声。

「…どうぞ、お入りください」

 どこで待ち構えていたのか、カイナルの登場は執事の退室から計算してあまりに早い。

 本当に早い。

 絶対に負けられない相手を迎えるには、心の準備がなさ過ぎた。

(何を言われるのかしら)

 眼差しが自然と険を孕む。

 窓辺に佇んだままカイナルを迎えたのは、下手に出る気がないとか、ドレスを汚したくないという意思表示ではない。

 極力目を合わさず視界にも入らずで接触を回避し続けた昨夜の反動から、踏ん張った足が妙に緊張してしまったのだ。

 それなのに、いつもと変わらぬ穏やかな面持ちで現れた相手は。

「お前は戻ってくれ。扉は閉めて」

「…ですが、カイナル様」

「仕事の話だ」

 後に続こうとした執事を制し、追い立てるように締め出してしまった。

(二人きり…)

 厳しい印象を与える騎士団の制服ではなく私服姿のおかげか、取って喰われそうな雰囲気はない。

 しかしシュリアは、硬い表情を崩さなかった。

 手を伸ばしても届かない絶妙な距離を置いて、カイナルが歩みを止める。

 その頭に、制帽はない。

 光を放つ漆黒の髪と同じ色の瞳には、偽らざる不安が浮かんでいる…ようにも見える。

「お加減はいかがですか、よく眠れましたか?」

 問いかける口調もいつもどおりだ。

 シュリアさんと呼びかけられて、唇を噛んだ。

(私の名前…)

 こんなに美しい響きをしていただろうか。

(しっかりして、私!)

 そんな言葉で誤魔化されるなと、感傷的になりそうな自分を戒める。

「昨日から何も召し上がっていないでしょう。胃に優しいものを作らせますから、少しでも腹に入れた方が良い」

 カイナルの言動は全てが謎だ。

 気まぐれに優しくされるくらいなら、俺様貴族のように分かりやすく蔑まれた方が何倍も心安い。

「体に障ります。座ってお話ししましょう」

 差し伸べられた右手をひたと見据えて。 

「お疲れでしょうから、ひとつだけ教えていただけたらお暇します」

 流されることもなく、明確に切り捨てた。

「ナリージャ様はどうなりましたか」

「…騎士団で手当てを受け、王城に移送されました。その途中で意識を取り戻しましたが、事件の記憶はないとか」

「ご無事、なんですね」

 駆けつけた騎士に叩き起こされたドービスはともかく、ナリージャの方は、書庫から運び出されるまで一度も意識が戻らなかった。

(無事で良かった)

 知りたいことはそれだけだ。それ以外のことは、事件の顛末も何もかも興味がない。

「色々と、ありがとうございました」

 危険から守ってくれた日々へ感謝して、深く頭を下げる。

(これで、全部おしまい)

 決意は揺らがない。

 きっぱりと引かれた終幕に、目元を歪めたカイナルは数度首を振り、か細い声で呟いた。

「あなたを守ると言いながら窮地を救えなかったのは私です。お怒りなのは分かりますが、せめてお昼を召し上がってください。私は席を外しましょう」

 シュリアにしてみれば、唐突に、予想外の言われようである。

(怒っている? 誰が?)

 立場が逆転している。

(どうしたらそんな結論になるの?)

 会話を繋ごうと選んだ言葉なら大成功だ。固く閉じた口がうっかり開いてしまった。

「怒ってなんていませんが?」

 書斎を離れた理由はグレイドに聞いた。やむを得ない事情を延々と根に持つ質だと思われていたのか。

(私が気にするとしたらそこじゃないわよ)

 もっと別に、あるだろう。

「あなたの私服を用意できず、姉の着古しで申し訳ありません」

 何を謝罪されたのか瞬時に理解できない。

(このドレスのこと?)

 ややあって、華麗なる装いを見下ろす。

(そこでもないわよ!)

 そんな細部に気を配れる紳士が、もっと大きな問題になぜ気付かない。

 ナリージャに八つ当たりして散った怒りの炎は、小さな熾火になっただけのようだ。

 沸々と火の粉が爆ぜている。

「後でご自宅までお送りします。今日はどの騎士も空いておりませんので、私がお送りすることになりますが…」

 重ね重ね、あまりの言いように。

(だから、私じゃないでしょ!)

 駄目だ、相手はお貴族様だと言い聞かせた甲斐もなく、一度弾けた感情は易々と制止を振り切った。

「結構です」

 ルミエフのように温もりが抜け落ちた低い声が口をついた。

「怒っているのも嫌気が差しているのも、全部あなた様でしょう? 秘密の件は、絶対に、誰にも喋りません。墓場まで持って行きます。ですからご安心ください」

「シュリアさん…」

「せっかくですが、使用人のお仕着せを貸して貰えますか。こんなドレス、私にはもったいない」

「待ってください」

「だって私は…」

「シュリアさん」

「私は!」

「お願いですから」

「私は、平民ですもの!」

「シュリアさん!」

 啖呵に被せるように、近付いたカイナルが左右の肩を強く握った。首が前後するほどの力は、再び犯した無礼を咎めているようだ。

 しかし、シュリアは。

「シュリアさん…?」

 された仕打ちが呼び起こされて、表情をなくして震えていた。

 触れた掌で異変を感じ取ったカイナルは、ぱっと距離を取る。

「シュリアさん、まず、お昼を召し上がってください。その後でお話ししたいことがあります」

 ああ、と。

 悲しみにも似た落胆が胸に落ちた。

 昨日の自分が未婚女性に何をしたのか、カイナルは良く理解しているのだ。ひどい事はしないと言わんばかりに口調を和らげたのが何よりの証拠。

 シュリアは、そう結論付けた。

 分かっていながら核心に触れない理由とは。

(触れるほどの大事ではないから、ということよね)

 今さら傷付くような心は、どこにも残っていないはずなのに。

(私はまだ、何かを期待していたのね)

 この様子では、言われたとおり昼食を取らなければ解放して貰えないだろう。

 一刻も早く逃げ出すため苦汁を飲む。

「分かりました。お言葉に甘えてお昼をいただきます」

 言葉とは裏腹に、挑戦的に後を続けた。

「お疲れのカイナル様からこれ以上のお時間を頂戴することはできません。食後は速やかにお暇します」

 生意気だろうが恩知らずだろうがどうとでもなれと言い放ったところで、カイナルには爪の先ほども意に留める様子はない。

「時間を見計らってお迎えに上がります。頭では大丈夫と思っていても、体には疲れが残っているでしょう。その華奢な体で無理はいけません」

 シュリアも無言で徹底抗戦だ。

 不服を主張しながら、胸の内で言葉を反復する。

(華奢、ねえ?)

 さすがに、ナリージャを引き倒した自分への評価としてはどうだろう。

 沈黙を了承と取ったカイナルは、言葉どおり部屋を出て行った。

(相変わらず強引なんだけど…)

 それを優しさと言うのなら。

 全てが偽物なのか、知りたいと思ってしまうのも事実なのだ。

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