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 ここは、ザックハルト子爵邸の客室。

 放り込まれた寝台であっという間に意識を手放したのが昨夜遅く。死んだように眠って目を覚ますと、燦然と輝く晩夏の太陽は既に頭上高く昇っていた。

 ミルデハルト伯爵邸で起きた騒動に駆けつけたのは、第三騎士団第一隊の全騎士だ。ナリージャの移送だ状況検分だと、使用人を巻き込んで慌ただしく動く大勢の騎士を、応急手当だけ済ませたシュリアは壁際のソファで眺めていた。

 いや、体も意識も沈み込んでいたところを。

 よく分からない理屈を並べて上官に詰め寄ったカイナルに、ザックハルト子爵邸へと連れ去られたのだ。

 そして。

 呼び鈴を振ると同時に雪崩れ込んできた侍女に着付けられ、略式のドレス姿で立ち尽くしていると。

「とても良くお似合いです。ご安心ください」

 好々爺の微笑を浮かべた執事から、嘘か本当か分からない誉め言葉が贈られた。

「そういう心配をしているんじゃありません」

「はい、存じております」

 着替えにと持ち込まれたのは、ザックハルト子爵家のご令嬢が若かりし頃に身に付けていたドレスだ。お忍び用ということでコルセットはなく、スカートの丈は足首までしかない。ミルデハルト伯爵邸で支給された実用的な靴があらわとなって、分不相応な感じが匂い立つ。

「メイド服をお借りできませんか?」

「何をおっしゃいますか、こんなにお似合いなのですよ」

 態度を崩さない執事は、この機会にドレスにも慣れて欲しいと誉めそやす。

 素直に喜ぶには世間を知りすぎているシュリアは、眉間の皺を深くした。

(間違いなく、着られているのは私でしょうよ)

 これは何か、言葉の裏がありそうだ。

「カイナル様は先ほどお戻りになりました。お加減がよろしければ昼餐をご一緒にとのことです」

 何のわだかまりもなく滑らかに喋っているが、この執事はシュリアの身分を知っている。その上で表情が変わらないなら、太刀打ちできる相手ではない。

(伯爵様のお屋敷に寄り道するしかないわ)

 さすがにこの姿で東部地区は歩けまい。

 今日は、ゆっくり休むようにと出された臨時休暇だ。そうは言っても、使用人部屋に置き去りにした私服に着替えるくらいなら、立ち寄ったところで構わないだろう。

 勝ち目のない押し問答から身を引いて、頭を切り替える。

「先ほどと言うことは、カイナル様は徹夜だった訳ですね」

「戻られてすぐ仮眠を取られました」

「でも、とても、お疲れでしょう」

 昨夜、何事もなかったかのように大舞踏会は開かれた。

 カイナルは、家人不在の屋敷で連れ帰ったシュリアを客室に閉じ込め、自分はミルデハルト伯爵邸に舞い戻ったのだった。

(魔力を使うのも、体力を削るのかしら)

 去り際には、青い瞳を晒して新しいまじないを二つ、三つほど掛けていたが。

(騎士って、体力勝負よね)

 昨日一日で負荷を受けすぎた心は、どこか壊れてしまったのだろうか。

 カイナルがどんな激務をこなしていようと、何も思わないのだから。

(もう二度と、カイナル様とは交わらない)

 人との付き合いで我を押し通す真似などしたことがないくせに、強い決意がシュリアを支配する。

(敵前逃亡だって、何だってするわよ)

 砕け散ったのは恋心。

 一晩明けてようやく気付くとは、己の鈍感さにも恐れ入る。

 失恋したばかりの相手を避けるのは当然の流れだ。色々な事情を考えると、むしろ接触を絶つことこそ最良の付き合い方ではないか。

 それなのに。

(昼餐を誘うなんて…)

 時間的にも体力的にも、今のカイナルにシュリアの相手をする余裕があるだろうか。

 どうにも胡散臭い。

 考えを巡らすシュリアを、笑顔の執事はずっと待っている。

 その圧力に丸め込まれてはいけない。ここで折れたら先々まで影響が残る。

(秘密を喋らないよう、釘を刺すため?)

 何せ、愛想がないようで本当は気配りのできる紳士…の皮を被ったお貴族様である。

 絶対に他言しないといくら言っても、平民の口約束なんて信用できないだろう。

 敬愛するルミエフ副隊長の手前、極端な真似は控えるとしても、だ。

 明るい未来は想像できない。

(やっぱり、すぐにでも帰るべき)

「これ以上のご迷惑はかけられせん。もうお暇しますので、ゆっくりお休みになってください。ご温情に感謝いたします」

 徹夜のカイナルを気遣うようでいて全く心のない台詞に。

「では、そのようにお伝えして参りましょう。カイナル様のご意向を伺って参りますので、しばしお待ちを」

 笑みを深めただけで丁寧に答えた執事は、美しいお辞儀を最後に退出した。

 意味深な微笑は、展開を予言するかのような。

 音も立てず閉じた扉が、次に開くときは。

(本人が…来る)

 ああ見えて、その実、強引な人だ。

 執事からシュリアのお暇宣言を聞かされれば、意向も何もあったものではなく駆けつけて不思議はない。

 どうしようか。

(…逃げてしまいたい)

 籠の中の鳥だとか、叙情的な表現は必要ない。今はまさに、競りにかけられる前の家畜の気分だ。

 しかし、仮にも客人の立場。

 脱走なんて非常識なことをしようものなら、ミルデハルト伯爵にも切り捨てられる。

 生活を守るか、自分を守るか。

(何でこんな事になったのかしら…)

 シュリアに許されたのは、残された自由時間を数えることだけ。

 窓の先、悠々と遊ぶ鳥は遠い。

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