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(カイナル様…?)
状況も忘れて動きを止めたシュリアを、誰かの腕が攫った。
窓際まで走ってしゃがみ込み、腰元の剣を抜いて盾となる。いつの間にか灯されていた明かりが抜き身の刃に躍った。
「…ルミエフ兄さん?」
鼻先を掠めた懐かしい香りに、助けが来たと理解する間も感慨にふける間もなく。
耳は、聞き漏らしそうに小さな音を拾ってしまった。
(な、何?)
堅いものが折れたようなそれ以上考えたくないような、不安を誘う不気味な音だ。
出所を探してルミエフの脇から室内を探る。
抉られた扉を守るのはグレイドで、その手前に、ナリージャを仕留めたカイナル=ザックハルトがいた。
(あの音は…)
顔を鷲掴みされ、抵抗するでもなく放り出された腕の先、ナリージャの指は微動だにしない。
(骨が…?)
殴る蹴るといった暴行をした訳でも斬りつけた訳でもない。大きな動きもなければ喋りもしないカイナルは、シュリアの目には黒い頭と限界まで指を開いた右手が見えるだけだ。
その指先で、たった今、何をしたのか。
これがカイナルの本気ならば、たかが口付けで済んだことを感謝せねばなるまい。
離れていても感じる静かな気迫に、助けられたシュリアの方が息を飲んだ。
徐々に気温が下がり、空気が張り詰める。季節が巻き戻ったかのように鳥肌が立ち、こめかみが締め付けられた。
心なしか、呼吸も苦しい。
先に悲鳴を上げたのは、数百年の重みに耐えた書架の方だ。
(もしかして、魔力を…?)
カイナルが顔を上げないのは瞳が青いせいだろうか。
きっとそうに違いない。
魔力が帯びる負の力は見えない圧力だ。おまじないなんて可愛いものではない。
肌を撫でる不自然な風は恐怖心を煽り、心臓の動きを止めにかかる。
誰一人として身動きができない。
再び、指の下で不穏な音が鳴った。
ようやく我に返り、真っ先に動いたのはグレイドだ。
「やめろ、殺す気か!」
弾かれたようにカイナルの右手を掴み上げた。
その瞬間、ふっと空気が軽くなる。
「いい加減にしろ!」
強引に引き剥がされたカイナルは、たたらを踏みながらも億劫そうに立ち上がった。出入口近くへと追いやられても、下ろした両の拳は強く握り込んで震えている。
深く、深く俯いて。
シュリアは、荒い息の下でその様子を見つめていた。
(良かった、二人には気付かれていない…)
状態を確かめようとナリージャに顔を寄せたグレイドに、ルミエフが生死を問うと。
「大丈夫だ、生きてる…はず。多分。よく分からんが、手当てを急ぐのは間違いない」
鼻先に掌をかざし、反対の手で脈を取りながら、曖昧な答えが返った。
「生け捕りにしろという命令だぞ、殺してどうする。私情を持ち込むな」
「まったくだ。素手で握り潰そうって、どれだけ馬鹿力だよ」
聞くとはなく聞いていたシュリアの中で、かすかな違和感が首をもたげる。
命はあるそうだが、ナリージャの息が相当に細いのは素人目にも明らかだ。
そんな人間を前に他に言うことはないのか。
(…考えちゃ駄目よ)
助けてもらったのだから。
騎士団の一種独特な価値観が受け入れ難くても、そういう所だと割り切るしかない。
許せないのはその点だけで、魔力の有無は気にもならなかった。
目の前では、ナリージャの所持品を手際良くグレイドが漁っている。
「あのメイドは誰だ」
完全に傍観していたところへ肩越しに問われ、声を絞り出すまで一拍。
「…侍女見習いのナリージャ様です」
「貴族か」
あからさまな舌打ちが続く。
「ついでに、そこで伸びている男は何だ」
そう言って顎で示された場所には、床に崩れ落ちたままのドービスが横たわっていた。
(忘れていたわ!)
「馬番のドービスさんです! ナリージャ様に後ろから殴られてしまって!」
その後、シュリアにも踏みつけられてしまったが。
「心配しなくて大丈夫だよ、シュリア嬢。時々むにゃむにゃ言ってるから、楽しい夢でも見てるんじゃない?」
グレイドの苦笑に合わせたかのように薄く口を開いたドービスは、聞き取れない寝言を口の中で転がすと再び静かになった。
(寝てるだけ? この状況で?)
一体どんな大物だ。
「何があったのか教えてくれ」
警戒を解かない真剣な声が現実に引き戻す。
「その男は侍女の仲間か」
「ドービスさんは、侍女長様を探していらしたナリージャ様にお手伝いを申し出られたそうです。それで、ここまで来たら、後からいらしたナリージャ様にいきなり殴られて…それっきり…」
「娘は何か言っていたか」
「いいえ、何も。いらした時にはもう、いつものナリージャ様ではありませんでした」
普通の状態ではなかったと、言葉を足す。
「それで、ドービスさんを殴った後、すぐに私を狙って…」
散乱する残骸を見れば想像は容易い。
シュリアが言い淀むと、大筋を把握したルミエフが先を続けた。
「あの娘はミルデハルト伯爵家の侍女で、名はナリージャ。侍女長を探していたが、書庫に来るなり手助けを頼んだ男を殴り、次にお前に殴りかかってきたと。それでお前には、殴られるような心当たりがない、ということで良いんだな?」
早々に背中越しの会話を打ち切って対応を練る。
「グレイド、今すぐ近衛に身柄を引き渡すことは出来そうか」
「無理とは言わないが、近衛が来る頃には命令違反になってる可能性が高い。手当てが先だろうよ」
「となると、我々だけでは難しいか…」
ここにいる戦力はたった三人。引き続き屋敷で目を光らせながら、近衛隊とミルデハルト伯爵に連絡を取ってナリージャを移送してとなると、どうしても手が回らない。
ルミエフが剣を収め、エドルフに繋ぎを頼むべく立ち上がると、盾がなくなったシュリアに笑いかけようとしたグレイドが表情を一転させた。
「シュリア嬢、どこを怪我した!」
それを合図に、残る視線も痛いほど突き刺さる。
「あ、そういえば…」
ぬるりとした感触を思い出そうとしてもう一度頬を撫でた。
(この辺り、だったかしら?)
言われるまで思い出さないのだから、後に響くような大怪我ではない。どさくさ紛れに付いた傷で、痛みも碌に感じなかったくらいだ。
そう楽観しているのは本人だけで、すぐさま元の位置に戻ったルミエフが丁寧な手付きで検分を始めた。
傷口の近くを触られて、走った痛みに思わず指を叩き落とす。
「痛かったか、すまん。出所はこめかみだな。あとは首と…かすり傷だ。出血が多いだけで傷はそう大きくない。何針か縫えば済むだろう」
(縫うって!)
三番目の兄でもあるまいし、縫うような怪我などしたことのないシュリアには十分な衝撃である。視線を落とせば、乾いた血で掌の色が変わっていた。
(薬草でどうにか…ならないってことよね)
瀕死のナリージャを見ても飄々としていたグレイドが目を剥いたのだから、凄惨な有り様が想像できるというものだ。
鏡を見たいような、見たくないような。
「グレイド、シュリアを頼む。カイナルはその娘を見張っていろ」
言い捨てて足早に書庫を出たルミエフに代わり、グレイドが目の前で片膝を付いた。
上官の命令に返事すらしなかったカイナルも、傷口から目を引き剥がしてナリージャの側に回る。
その時一瞬だけ。
闇夜のような黒い瞳が、シュリアを捉えた。




