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「お前も暑いだろうから、気にせず脱いで良いぞ」
その指示を本人が嫌がっていることは、表情が見えずとも瞬時に硬化した空気で分かる。
しかし、妙なところで鈍いルミエフには感じ取れなかったらしい。
「どうした?」
三度促されて逆らえるはずもなく、渋々と言わんばかりの緩慢な動きで伸ばされる手を、悪いと思いながら息を止めて見つめてしまった。
(あら?)
現れたのは。
何てことはない、迷わず合格の判を押したくなる爽やかな男前だけ。
ライナルシア王国の大多数の民が持つ黒い髪と黒い瞳。リーリアと並べば、年齢差はともかく、さぞやお似合いの二人だろう。
「髪が伸びたな。ここにハゲがあったのだが」
ルミエフの左手が、カイナルの右側頭部を指している。
(ハゲ…)
それは、本人が秘密にしたかった繊細で複雑な事情では。
見れば、カイナルの瞳に生気がない。
「…そうですか、分かりにくくなりましたか。シュリアさん、そういう事情があって、礼儀に反すると分かっていながら被ったままで失礼しました」
無表情で丁寧に謝罪され、愛想笑いを返す以外に術がない。
「お気になさらず! ところで、ミルデハルト伯爵様とはお知り合いですか? とてもお詳しいんですね!」
そして、これ以上兄が何か喋る前に話題を逸らした。
意図を察したカイナルは、見るからにほっとしている。
「ええ、ミルデハルト伯爵家は遠い親戚に当たります。とは言っても、あちらは領地を持つ由緒正しい伯爵家で、都貴族の我が家とは天と地ほどの違いがありますが」
都貴族とは、爵位だけあって領地を持たない貴族のことだ。何らかの功績を評価されて叙爵されたが、変化に乏しいこの国で分け与える土地などそうそう転がっておらず、籍だけ貴族階級に並んだ者たちである。
「でも、ミルデハルト伯爵様のお屋敷はどうして使用人が少ないんですか? 臨時とは言っても、私なんて何も経験がないのに」
「詳しい理由は私にも。ですがシュリアさんは、二人も騎士を輩出したご家庭のお嬢さんですし、一番上の兄君も屋敷に出入りされていれば、人となりが自然と想像できますよね」
言わんとするところは、前評判だ。
元々、騎士の門戸は貴族にだけ開かれていた。それがいつの世か、優秀な平民をも集めるようになり現在に至っている。しかし、よほど特異な経歴でない限り、本人の質はもちろん確かな身元が必要である。
カイナルの言うとおり、兄二人が平民騎士であるシュリアは、思わぬ社会的信用を付与されたも同然であった。
「あの屋敷で重要視されるのは、経験ではなく信用です。縁故採用しかしていないとも聞いたことがあります。仕事が始まればちゃんと教えてくれますから、大丈夫ですよ」
誰かの知り合いの誰かを採用するならば、紹介する方もされる方もいい加減なことはできない。なるほど、それも人手不足の理由なのだろう。
自分だけの問題ではないと、気が引き締まる。
(兄さんの評判に、傷をつけないようにしなきゃ)
「ここから伯爵邸は遠いし、似たような屋敷が並んで分かり辛い。明日は初日なのだから、兄さんに連れて行ってもらえ」
ルミエフなりに可愛い妹を案じた言葉だったが、シュリアは思わぬところに反応した。
「え、明日?」
客人の前にもかかわらず、眉間に深い溝を刻む。
「ユーリ月の初日からと聞いたが」
ユーリ月の初日とは、明日のこと。
「ええっ?」
秋は収穫の季節、冬は魔物の季節、春は再生の季節。
伝承では、魔物が活動期を迎える冬の季節、ライナルシア王家は持てる魔力の全てを国の守護に注ぎ込むのだとか。それこそが、この国で唯一魔力を繋ぐ一族の義務で、国を統べる大義である。
必然的に、王家に最も負担が少ない季節は夏。
そのため、ライナルシア王国の社交シーズンは、夏に始まり夏に終わる。
そして、暦上、夏を連れてくるのはユーリ月と決まっていた。
「兄さんから聞いていないのか」
「初めて聞いたわ」
「まあ、仕方ないな」
相手はエドルフだから。きっと、確認しなかったシュリアが悪いのだ。
教会への断りや心の準備など問題が山積なのだが、同情も励ましもなくルミエフが話をまとめた。
「明日も良い天気になるだろう。良かったな」
(何ひとつ良くないわよ!)
カイナルが憐れみを滲ませて青い顔のシュリアを見ていたが、それすらも頓着できないほど慌ただしく、平穏な日々は終わりを告げたのである。