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行く手を塞ぐのは両開きの扉。出入口が閉まっているのは想定どおりだ。取っ手を掴む前に一撃が来るのも間違いない。
思ったとおり、頭の上で空気が震えた。
ヨケロ、カガメ!
誰かの叫び声で、振り向きざまに身を屈める。
結い髪はほつれて跡形もない。顔に落ちた幾筋かの隙間から振り下ろされる女神像を見た。
(間に合った…?)
だが、間一髪に安堵してはいられない。
(早く、早く!)
重い女神像は自由を奪う。振りかぶろうとナリージャが手間取っているのを尻目に、扉の取っ手に腕を伸ばした。
(女神様、助けて!)
指が届いたと思ったときだ。
まさに、本能と言うべきか。
シュリアは、全ての瞬発力を総動員して大きく後ろに飛びすさった。その直後、鼻先を掠めながら視界を横切った物体が重厚な扉を派手に穿つ。
どおんと、有り得ない大音声が鼓膜を震わせた。
勢いを殺せず床に転がりながら、自分がいた場所を仰ぎ見れば。
(あれを、投げた…)
木製の扉はまだ機能しているが、抉られた場所は白木を晒し、周囲には木片が飛び散っている。
一方の女神像は立像の跡形もなく砕け、大小様々な岩の塊が散乱しているではないか。
逃げることも忘れ、その光景に唖然とする。
意図せず頬に当てた手には、べったりと液体の感触がまとわりついた。痛みは感じなかったが、飛んできた何かで出血したに違いない。
(結構、血の量が多い)
いや、それよりも。
腰が抜けて立ち上がれないことの方が命取りだ。
凶器を手放したナリージャは明確な意図を持って両手を突き出すと、数歩進み、腰を下ろした。細い指が向かう先は、息を飲んで見つめるシュリアの首。
理解を超えた、ひどく現実味のない動きだった。
(どうしてそこまで…)
殺そうとできる?
何の接点もない、見ず知らずの平民を。
肌に感じた指は氷のように冷たい。人を殺せると本気で思っているのか、問いただしたいほどに華奢な作りだ。
(弱気になってる場合じゃないわ!)
シュリアも、伸ばされた手首にしがみついた。
荒事とは無縁の男爵令嬢の指は、抵抗に耐えきれず少しだけ浮く。ところが、力は予想外に拮抗して、それ以上の距離が開かない。
(ナリージャ様に、力で負けるはずがない!)
力ずくで逃げおおせたとしても、貴族を害した罪は一生付きまとう。この国にいる限り、正当防衛であろうと、平民が貴族に抗うとはそういうことだ。
それでも、逃げる算段を練る。
現実的に脱出可能なのは、やはり、ナリージャの背にある出入口だろう。庭に通じる窓は小さすぎるし、書斎に通じる扉は遠すぎる。
(みすみす殺されて、なるものですか!)
貴族だから何だ。
噛み締めた奥歯をぎりっと鳴らす。
(私が何をしたって言うのよ!)
平民ならば、無抵抗で殺されろとでも言うのか。何だって言いなりにできるとでも思っているのか。
(貴族なんて…)
睨み付けた先、光に背を向けたナリージャは大きな影だ。その影が陽炎のように揺らぎ、似ても似つかない獰猛な雄の顔が浮かび上がった。
この期に及んでなお、幻を呼び起こすほどの未練があったとは。
見てしまえば我慢できない。
感情は、簡単に暴走した。
(あなたなんて…)
幻でありながら、明滅する青い瞳がシュリアを射る。
(あなたなんか!)
視界いっぱいに白い光が弾けた瞬間、耳から伝わる全ての音が途絶えた。
感情の濁流は、シュリアを人たらしめていた良識の箍を食い破る。
「だいっきらいよぉっ!」
叫んだ勢いのまま。
細い手首を握り潰さんばかりに掴み上げ、真横へと引き倒した。
すると、ナリージャの体は軽々と向きを変え、女神像の残骸と木片が散らばる床の上を音を立てて横滑りした。
巻き上がる埃が二人を遮断する。
もわっと、粉塵混じりの古紙の臭いが押し寄せた。
(ナリージャ様は!)
姿を探そうにも、暗すぎて様子が分からない。
遅れて、針で刺されるような痛みが目を襲った。飛び込んだ異物のせいで、反射的に瞼を下ろす。
喉の奥に貼り付いた不快感が乾いた咳を誘う。
(駄目、逃げなきゃ)
こうしてはいられない。
しかし、思いは形にならず、涙が溢れた。視界は滲むどころか何も見えやしない。
荒事に慣れていないのはシュリアも同じだ。次々と巻き起こった事件が心に傷を残し、ここに来て限界を迎えてしまったのだった。
(こんな時に!)
視覚を補うように動き始めた耳が新しい音を拾う。
複数の靴音と荒い息遣い。
意識して耳を澄ませば、聞くはずのない声で名を呼ばれたような。
(…これも、幻?)
幻影の次は幻聴まで。
袖口で涙を拭い、瞼をこじ開ける。
視線を彷徨わせると、壁際に大きな黒い塊が何とか見えた。あれがナリージャだろう。
だが、それにしては影が大きい。
(一人じゃない?)
倒れたナリージャを馬乗りに押さえつけるのは別の影だ。
シュリアは、痛みを忘れて目を見開いた。
消したはずの幻影を凝視する。
(幻じゃ、ない)
月の照らさぬ夜会の日、その姿だけが見えたように。
彼を見間違えることなど、有り得ないのだ。




