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話しかけにも反応せず、凶器が落ちても両手の形が変わらない。古書の残骸に目を奪われたのもシュリアだけで、顔はずっと正面を向いている。
よくよく見ればいつもの不安定感もなく、まるで、ナリージャの姿を模した人形のようだ。
キケン、ニゲロ、ニゲロ。
脳裏で、一段と激しく声が鳴る。
シュリアは、警告に従ってすぐに動いた。ドービスを乗り越え、床に散乱した古紙を踏みつけ、回遊式の書架の通路へ。
(どうすればいい?)
書斎へ助けを求めるには。
(叫べばいいの?)
ドービスの件からして、自発的に扉が開くことはないだろう。
(でも…)
本当に、助けてくれるだろうか。
騎士団の目的は、あくまで「闇の光」を捕らえること。
今のナリージャが異常だとして、即ち「闇の光」かなんて知りようもない。果たして、無傷のうちに関連性を判断できようか。
(そんなの分かりっこないわよ!)
当事者のシュリアが分からないのだから、壁越しに耳を澄ませただけでどうして分かる。
(だから、出てきてくれないの?)
大事の前の小事と言ったのは俺様貴族だったはず。それがどうだ、どういうことだ。
動かぬ女神像にナリージャの手が伸びたのを見て、腹を括った。
(誰かに期待しちゃ駄目!)
背丈こそ子供の膝までしかない女神の立像だが、それなりに横幅はある。岩盤から掘り出されたままの荒々しい見かけに違わず、何より重い。この国の伝統文化にはない自然美溢れる逸品だった。
下町育ちのシュリアですら抱えて歩くのが難しいのだから、お嬢様に持てるはずはない。
そんな風に思いながらも、もしかしてと予感したとおり、新たな武器を抱き上げる華奢な姿が目に入った。
やはり、ナリージャはおかしい。
隙を見せないよう、書架の隙間をじりじり後退しながら思考に鞭を打つ。
(こんな狭い場所で、女神様を振り下ろすことはできないわ)
書庫の扉は開いていただろうか。引き寄せて、一気に逃げれば勝算があるだろうか。
(私は…)
消えない希望は胸にある。
ミルデハルト伯爵の期待に応えることだ。
(私は、大丈夫)
平民で、女のシュリアに、大切なお役目を任せてくれた。
姉の代わりではなく。
自分自身に初めて価値を付けてもらえたあの瞬間、体に溢れた喜びは、まだしっかりと覚えている。
(しっかりしなきゃ!)
気持ちが折れるとそこで終わる。
覚束ない足取りのナリージャから目を逸らさず、絶対に負けてなるものかと意地を燃やした。
壁棚に置きっ放しにされた手燭の明かりは、書架に阻まれて今や足元すら照らさない。近くにあるはずのナリージャの表情も、狙われる理由も分からない。
分かっているのは、逃げ切ることだけ。
女神像が微妙に上下しているのは、歩く振動だけではなく、細腕が支え切れていないせいだろう。
(折り返して、作業場に出たら)
考えている間にも、退路は壁際の書架に阻まれ、否応なく隣の通路に入る。一瞬消えたナリージャの姿も当然ながら再び現れ、距離を保ったまま明るい場所へと近付いた。
どれほどの時間をかけて狭い通路を戻っただろうか。
移動しながらも書棚に手を添え、柱の本数を数えていたシュリアは、最後の書棚を前に腰を落とした。
残る柱は一本。
三歩もあれば通路を抜ける。
抜けたら、走る。
(きっとナリージャ様も)
そして。
シュリアが身を翻したと同時に、ナリージャの足も床を蹴った。




