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言葉の熱に浮かされた男が、下がればソファに倒れるしかないシュリアを追い詰める。
(黙って聞いていれば!)
リーリアに熱を上げていたくせに、想い人の妹に何を言うか。
(迷惑かけないんじゃなかったの!)
心なしか鼻息も荒い。
暗がりで碌に表情は見えずとも、どう説得しようと止まりそうにない雰囲気なら痛いほど感じた。
「さっきの帽子野郎はただの護衛だろ? その、恋人とかじゃ、ないよな?」
飛び出した思わぬ発言に。
(何ですって?)
本気の怒りがこみ上げる。
帽子野郎というのは言い得て妙だ。しかしその後は何と言った?
恋人?
僅かでもそんな風に見えたのだとしたら、ドービスは目も頭も救いようがない。
「そんなこと、ある訳ないじゃないですか」
自分でも驚くほど無感動に、言葉を重ねる。
「ある訳ないでしょ」
帽子野郎なる人物はザックハルト子爵家のご子息様であると投げやりに説明しながら、頭の芯が冷えていくのを他人事のように感じていた。
「そんな誤解すら失礼ですよ」
「そ、そうか、そうだよな。相手はお貴族様だもんな!」
分かりきった質問をした自分を恥じるように、ドービスは笑った。
その短い間も、一定の距離を保ちながらゆるゆると後退を余儀なくされ、とうとう、ソファに足が付いてしまった。こうなると、二人の距離は縮むしかない。
逃げられないシュリアの両肩が力いっぱい掴まれた。
「痛っ!」
暗さにも負けずしっかり見える強い瞳。この距離に他人の顔があるのは本日二度目。
背筋を伝う冷や汗も記憶に新しい。
「ドービスさん!」
書斎に続く扉は沈黙を守っている。ある意味では心底助けてほしいこの状況で、声も物音もばっちり聞こえているだろうに。
「今さらって感じだよな。でも俺、邪険にされ続けてさ、気付いたんだ」
正面を塞ぐ男が真剣であればあるほど、焦燥感は加速する。
武器はドービスの向こう。微笑み続ける女神像に手は届かない。
もしもの時は急所を蹴り上げろというリーリアの教えも、実践するには立ち位置が難しい。
近すぎて、息も熱も、早鐘を打つ鼓動すら伝わってきそうだ。
「ドービスさん、人を呼びますよ!」
「俺は…君が…」
大声を上げたところで、誰か気付いてくれるだろうか。書斎から助けは来るだろうか。この男は何がしたいのだろうか。
ぐるぐると、しかし急速に考えを巡らしていた、そのとき。
ぼすん、と。
鈍い音がして、ドービスが崩れ落ちた。
(き、消えた?)
追うように真下を見れば、ドービスの弛緩した体は消えることなく転がっているではないか。
(…殴られたの?)
真正面に目を凝らすと、小柄な体を大きく開き、仁王立ちしたナリージャが淡い光に浮かび上がる。
(これ、ナリージャ様が?)
持ち込まれた小さな手燭が、入口脇の壁棚で不安そうに揺らめいている。僅かな明かりを頼りに手元を辿れば、相当な厚みの書物をがっちり握り締めていた。
(助けてくださった、のよね?)
男爵令嬢の細腕で。
(まさか、あれで!)
用途を察したシュリアは、迷わずしゃがみ込んで鼻息を確かめた。
(あ、生きてる)
心底ほっとした。
肖像画の廊下を怖がる男爵令嬢が、そんな力をどこに隠し持っていたのか。
(過剰防衛の気がしないでも…)
大の男を昏倒させるとは随分と頼もしい。
「ナリージャ様、ありがとうございました。私一人でどうしようかと…」
真っ先に生死を確認しておいて白々しいにも程があるが、ひとしきりナリージャの勇気を褒め称えた後で、握られたままの凶器に話を移す。
「まだ修復を終えていない古い物で、お手を汚してしまいましたね。生憎、サリエル夫人はお見かけしていません。どうぞ、他をお探しに…」
破れた背表紙がぺらりとぶら下がった。
(まずいわ、今の衝撃で…)
そして。
手渡すように持ち上がったナリージャの手から、ぎりぎり装丁を保っていた書物が抜け落ちた。
「ああっ!」
受け止めようと伸ばした腕が宙をかく。
床に打ち付けられた古書は、痛みに耐えきれず盛大に中身を吐き出した。
足元で白く浮かび上がるのは大量の古紙。頁の順番も何もあったものではない。
無惨である。
(伯爵様、申し訳ありません)
速やかに頁を集めようとして、首を捻った。
(あ、あら? 膝が動かない?)
膝だけではない。腕も腰も、頁を拾うための一切の動作が、不思議なことに全くできなくなっていた。
まるで他人の体だ。
試しに腕を持ち上げてみると、何ら抵抗もなく命令は伝わった。色々ありすぎて麻痺したのかと思ったが、そうではなく、他の動作は問題ない。
そこでふと、違和感を覚えた。
(サリエル夫人じゃないと駄目な用事?)
こんな時間に、こんな日に。
男爵家のタウンハウスはこの屋敷から近く、ナリージャは祖母と共に馬車で通っている。そのため、ナリージャにとっても夕刻の鐘は終業の合図だ。
(見習いだもの、普通、お婆様とか他の侍女様を頼るわよね?)
それで、事が足りるのではないか。昨日までならともかく、手が貸せないほど忙しい人間はいないだろう。
(何か、おかしい)
気付いた瞬間に、目の奥が焼け付くような、奇妙な感覚が勢いよく爆ぜた。爪先から、熱さと冷たさの両方が身を貫いて、一瞬だけ、シュリアの意識を奪う。
その感覚がどこかへ消えてしまうと、残された誰かの声が逃げろと叫んでいた。
(ナリージャ様が、おかしい!)




