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やがて、動き始めた頭は室内の暗さを認識した。
夏の終わり。太陽が傾くと光は遠い。
今日は半日近くを棒に振った。床に築いた書物の山は、出番を待ちくたびれたことだろう。
残念だが時間切れだ。きっともう、夕刻の鐘が近い。
(早く片付けて、早く帰ろう)
ふと、書斎に繋がる扉が目に入る。
(何の音も聞こえないわ)
「闇の光」の襲撃に備えて騎士団が待機する部屋だ。
(今日は一人で帰ってくれ、という話よね?)
ミルデハルト伯爵邸を狙うなら、帰路で狙われる可能性はないだろう。建国五百年祭で猫の手も借りたい騎士団が、代理のお迎え係を寄越すはずもない。
そして今日を限りに、シュリアの護衛という馬鹿げた任務も終了だ。
(明日からは、ちゃんと頑張りますから)
裁量に任された仕事だからこそ、余計にしっかりしなければ。
振り向きもしない女神像に宣誓して腰を上げる。
控え目に扉が叩かれたのはその時だった。
来客が少ない書庫、それも終業近くに何用かと見ていると。
「や、やあ。お邪魔してもいい?」
僅かに開いた扉の隙間、顔だけ出したドービスが入室の許しを乞う。
顔には、おもねるような微笑を浮かべていた。
(どうしたのかしら?)
許可を問われたことなど一度もない。まるで、駄目だと言えば引き下がってくれそうな様子ではないか。
「どうぞ?」
小動物のように体を丸めて入ってきたドービスは、具合の悪さを尋ねられる前に元気良く口を開いた。
「これはすごい量を広げたな! 俺なんて、この景色だけで窒息しそうだ!」
片付けようと思った矢先の床の上は、惨状と揶揄されても仕方のない有り様だ。言葉だけなら皮肉にも取れるが、声音は至って明るく、悪意の欠片も見られない。
呼吸が、ふっと軽くなる。
本来いるべき世界の、体に馴染んだ気安さがあった。
「何かご用ですか?」
本心を隠すように、少し早口になった。
「ええっと、サリエル夫人がいないかと思って。いないみたいだけど」
「午後一番でお出かけになったきり、お見かけしていません」
「ああ、うん、小さい馬車で出たんだよな。まだ馬も帰ってない」
馬番が言うのだから確かだ。
(いないと分かっていながら?)
不可解な行動に首を捻る。
自分でも認識していたドービスは、顔を伏せ、弁明するように一気に喋った。
「表でナリージャ様が探してたんだ。サリエル夫人に急用だって。廊下が怖くて書庫まで探しに行けないって、泣かれてさ…」
(ああ、ナリージャ様ね)
話に出た見習い侍女の顔を思い浮かべ、シュリアも納得した。
近いうちに屋敷を去る予定の侍女がいる。件のナリージャは彼女の孫娘だ。祖母がいる間にと、シュリアより少し前から行儀見習いに上がっていた。
ミルデハルト伯爵家に縁ある男爵令嬢で、純粋培養の箱入り娘。遠目に分かるほど可憐で、いつも泣きそうな顔をしている。所在なく右往左往しては叱責をくらい、胸を張って侍女を名乗れる日まで押し潰されやしないかと気になっていた。
貴族女性の結婚は早いそうだが、まだ若すぎるほど若いナリージャならば相手はいくらでもいるだろう。早く嫁がせた方が本人のためだと、休憩中の侍女がこっそり喋っていたくらいだ。
ドービスが手を貸したのも良く分かる。
(ナリージャ様なら、誰だって助けてあげたくなるわよね)
そうだろうとも。
肖像画の色が変わったなんて知ったら、二度と屋敷には近寄れまい。
「それで、断り切れなくて書庫に?」
「馬が帰ってないとは説明したんだけどな、どうしてもってさ。まあ、俺も、口実が欲しかったし…」
「口実?」
そこで面を上げたドービスは、男らしい眉を怒らせ、強い眼差しをシュリアに向けた。
「さっきの帽子野郎、騎士団の兄貴が付けた護衛だろ? 俺のせいで怒ってたんだろ? 置き去りにしてごめん。あの後、何もされなかったか?」
「何って…」
僅かな逡巡の後、その心配を短く否定した。
「いいえ、何も」
何もなかった。
強いて言うなら、立場の違いを思い知らされただけた。それは本来弁えておくべきことで、忘れていた自分が悪い。
全て洗い流したせいか、感情らしい感情はもはや何も覚えなかった。淡々と、通り過ぎた事実だけが脳裏を巡って、呆気なく終わる。
そんなことよりと、興味は別の方向に引っ張られた。
(口実が必要だなんて、どういうこと?)
繊細とは対極にありそうなドービスに限って。
「今さらおかしなこと言うんですね」
「うん、そうなんだけど。俺、毎日毎日馬鹿みたいに邪魔してただろ。いい年の大人が情けないよな」
「え、ドービスさんが?」
「本気で嫌がられてたのは知ってたんだ。なのに、自分の都合を押し付けてばかりで本当にごめん。最低だった」
別人かもしれないが、恐らくは本物のドービスが頭を下げた。
シュリアとしては、一方的に謝られると居心地が悪い。
「これからは迷惑かけないって約束するから、許してくれないか。俺は、君に嫌われたくないんだ」
「私も生意気を言いましたから、お相子ですよ」
どう考えても生意気なんて優しい物言いではなかったけれど、許されたい一心のドービスにはそれすら体の良い拒絶に聞こえるのか、苦しげに眉根を寄せた。
「生意気なんかじゃないよ」
君は可愛いよと。
思いもよらない言葉を吐いて、やるせなくうなだれるのだ。
(かわいい?)
確かに、可愛いと。
(何の冗談よ!)




