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「あお…!」
零れた言葉は半分も音にならず。
(え、何?)
前触れもなく、口付けが強引に飲み込んだ。
(どういうこと!)
逃げ道は書棚に塞がれている。その上、顔も体もがっちり押さえ込まれ、気付けば身動きひとつ取れない。
抵抗すればするほど、拘束は強くなる。
引き剥がそうと爪を立てた指は、自分よりずっと大きな掌に攫われてしまった。
今、私は。
こんな場所で何をされている?
(私には、弁えた態度を崩さないって…)
そんなこと、よくも思えたものだ。
奪うだけの唇は、言葉を封じた後も角度を変え、何度も何度もシュリアを責める。
見開いたままの目に映るのは、ちらちらと揺れる青い色。
これを隠したかったのか。
腑に落ちたのを最後に、まともな思考は吹き飛んだ。
心なんて、跡形もない。
(カイナル様…)
やがて。
唾液に濡れた肌が空気に触れて、拷問の終わりを知る。
「親しくなりたいと言ったのは、言葉どおりの意味だと申し上げたでしょう」
青い瞳は魔力の証。
隠したかったものは、世界を巻き込む争乱の種。
(こんなことをしなくても、喋ったりなんてしない…)
力の抜けた腕で広い胸板を押すと、意外にも簡単に解放された。
溢れた生理的な涙を、男の指が拭う。
何故泣くのか分からないと、言わんばかりに丁寧に。
「あなたは、私だけに守られていれば良い」
正気と狂気の狭間。
青い瞳に熱情を宿した男は、譫言のように呪いを吐いて。
両腕で自分を庇うシュリアをもう一度捕らえると、容赦なく唇を貪った。
「あなたは、私のものだ」
深い口付けの後。
膝から崩れ落ちる細い体を抱き留めたカイナルは、シュリアが見たこともない、男の顔をしていた。
午前に一度、午後に一度。料理長特製の菓子が振る舞われる休憩時間は、甘味に縁がなかったシュリアにとって何よりの楽しみである。
しかし今日ばかりは、投げっ放しの置物のようにソファに身を沈めたまま。
正面に置いた女神像は、あらぬ方向へ慈愛の微笑を向けたきり、放心するシュリアに手を差し伸べることもない。
(何が起こったのかしら…)
確か、最終的には、立っていられなかったはず。
ここまで連れてきたのは、好き放題やらかしておきながら涼しい顔で肩を抱き、書庫から出るなとしつこく言い含めて去ったカイナルである。
(本当に、何だったの?)
おじいさんと同じおまじない、青い瞳、生々しい口付け、最後の脅迫。
いくつもの出来事が瞬いては消える。
ただ一つ、今のシュリアに分かることは。
(こうすれば、秘密が漏れないとでも思ったのかしら)
あれほどの恥辱だ。誰だって一切の口を噤むだろう。迂闊に喋ろうものなら傷物と呼ばわれるのが目に見えている。
女性が独りで生きるには厳しい社会で、未婚女性を黙らせるには最適な手段だ。
(そうでもしなきゃ守れないと、思われたのね…)
信用されていれば。
問答無用で口付けておきながら、理由を問うことも許さず置き去りにするなんて、ひどい扱いはされなかった。
(とんだ思い違いを…)
あの約束は。
シュリアを認めてくれた証だと思っていた。
(私は、疑いもしなくて)
毎日顔を合わせ、言葉を交わして繋いだ縁だ。いつの間にか、境界線を忘れるくらい近くに感じていたのだ。
(得られた信頼なんて、なかったのに)
身分差とは、そこまで頑なに人を区別するものなのか。
それとも、自分に欠陥があるのか。
重ねた日々が急速に色褪せる。
(馬鹿みたい)
止まっていた涙が零れ落ちた。




