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「…外にご用事でしたか?」

 勝手に下がることもできず、かと言って下がらせてくれと頼むこともできず。時間と自分を持て余していたところに、一転して普段どおりの声がかかった。

「はい、兄の所までと思ったのですが」

「ご一緒しても?」

「遅くなってしまったので、もう戻ります。」

 だから気にしないでくれ。

 拒絶を匂わせても、カイナルは平然と寄り添った。

「あの男がドービスですね。彼と何を?」

 冷静を取り戻したように見えて、言葉尻には余韻がない。その実、感情が抑えきれていないのだろう。

(まさか、遊んでいたとか思われてる?)

 しかし、不名誉な誤解をされたとしても。

(それならそれで)

 何もなかった状態に戻れるなら、躍起になって誤解を解く必要はない。

「少しお話ししていただけです」

「相手をしないで欲しいと、お願いしたはずですが」

「世間話ですから」

「それにしては楽しそうでしたね。以前のあなたは、彼にひどく立腹していたのに」

 これには、さすがにむっとした。

 随分と女々しい言い分ではないか。

(それで怒るくらいなら、さっさと邪魔をしに入ればいいのよ。言い付けを破られたから怒っている訳でしょう?)

 それ以外の理由など、ない。

「ご覧になっていらしたのですか」

 声は、自然と棘を孕む。

 果たして、どの辺りから盗み見ていたのか。書庫での立ち聞きの件も、そういう悪癖は失礼だと叩きつけてやりたいものだ。

 一方のカイナルは、軽く不作法を詫びただけで。

「制帽は、慣れてしまえば平気です。この広いツバは、見せたくないものをちゃんと隠してくれますから」

 唐突に、謎解きを始めた。

(ああ、さっきの…)

 身分違いという境界線越しに投げつけた質問の答えだ。

(見せたくないもの?)

 今なお顔を覆うツバの下、隠したものとは何だろうか。

 気にならないと言えば嘘だが、知る必要のない秘密を暴くつもりはない。

 聞いたところで意味がないし、きっと得もしないはず。放っておくと重大な秘密まで喋り出しそうで、早々に話を遮った。

「失礼なことばかり申し上げました。どうか忘れてください、お願いします」

「ご婦人には馴染みが薄いかもしれませんが、我々にしてみれば、帽子の着用はごく普通のことですよ」

「カイナル様、本当に」

「確かに型は古いけれど、不自然と言われたことはありませんでした」

 それを聞いて、撤回の言葉が途切れてしまった。

 貴族愛用の紳士帽とカイナル愛用の制帽を、同列に語るのはどうだろう。

(世界が違うせいかしら、上手く理解できないわ)

 その感覚は貴族特有なのか、カイナルの個性なのか。少なくとも、シュリアの価値観では賛同できない。

「それから。親しくなりたいと申し上げたのは…」

 続けようとする言葉を、全力で打ち消して。

「平民の暮らしを知るためですよね! 最初にお聞きしていながら、うっかりしていました」

 見えない双眸に目を凝らし、自虐的に笑う。



 ちょうど辿り着いた書庫の前。

 扉に腕を伸ばしたのはカイナルで、無言で中へと促される。

 午前中ならばサリエル夫人がいたのだが、午後一番で呼び出されて慌ただしく外出してしまった。

 準備期間を含めると三か月以上も続いた社交シーズン。さすがに疲労を隠せず、逃げるように書物に埋もれていたというのに。

 シュリアを迎えたのは、時間を止めた書物の山。サリエル夫人は戻っておらず、当然にカイナルと二人きりである。

 埃と黴の臭いが染み付いた空間が、今日は全く落ち着かない。

「親しくなりたいと申し上げたのは、今となってはそのままの意味です。そのように捉えていただいて構いません」

 歪な笑顔を作ってまで忘れて欲しいと頼んだ質問に、真面目なのか嫌がらせなのか、カイナルは最後まで答えた。

(そのようにって、どのように?)

 直截な表現を厭う貴族らしい言い回しだ。

(私に、分かる訳ないじゃない)

 意味を聞き返しもせず、出したばかりで手つかずの書物を抱えて、奥の書架へと足を向けた。

 無言で作業を再開したシュリアの背を、板張りの床を鳴らす靴音が追う。

「シュリアさん」

「作業しますので」

「シュリアさん、私は」

「大丈夫ですよ」

「聞いてください」

「ここに危険はありませんから!」

 振り返りざま、見栄も礼儀もかなぐり捨て、どこかに行ってくれと声を荒げた。

 ところが、である。

 投げた視線を受け止めたのは騎士団の制帽ではない。制帽は、飾り羽の先が床に触れるのも構わず、下ろした右手に握られている。

 書架に囲まれた薄暗い通路、呼吸さえ聞こえそうな距離で、黒曜石のような瞳が僅かな光を反射する。

 見せたくないものとやらを隠しもせず、久し振りに見る素顔のカイナルがいたのだが。

 雲行きがおかしい。

(どうして私が睨まれるの!)

 いくら暗くてもこの距離だ。それくらいはシュリアにも分かる。

(生意気だから? 恩知らずだって?)

 まさかここで、身分を弁えろなんて説教でもされるのだろうか。

 書架とカイナルに挟まれ、僅かでも動けば無事でいられないと、粟立つ肌が感じていた。

「シュリアさん」

 距離は歩幅一歩分。

 身を守るように両腕を抱き締める。

「あなたに施した災い除けのまじないは、まだ消えてはいませんが…」

 高まる緊張に、胸の音が飛び出しそうに暴れている。

 カイナルは、特に機嫌を損ねた様子もなく制帽を持ち替えると、空いた右手をシュリアに伸ばした。

「連中が来たとしても、必ずすぐに駆けつけます」

 指で、そっと額に触れる。

「あなたを決して傷付けさせません」

 額の上で、何かの文字が描かれたようだった。同じように両の目蓋、左右の頬へと指は移る。

(最後は、唇に…)

 覚えのある感触が、主張するように記憶を叩く。

(…もしかして)

 予感したとおり唇に触れられて、シュリアは思い出した。

 幼い頃、おじいさんにかけられた幸せのおまじない。

 体を巡り始めたのは、あの時と同じ心地良い熱だ。

「温かくなったでしょう、分かりますか?」

 されるがまま微動だにしないシュリアに、ことさら優しい声でカイナルが問う。

 一度離れた指は、温度を感じさせるためか再び頬に触れた。触られた場所は温かいのに、男の指先はひどく冷たい。

 その温度差にも、間違いなく覚えがあった。

(どうしてカイナル様が?)

 これは紛れもなく、おじいさんと同じ力。

(ねえ、まさかね?)

 指先が頬を滑り、輪郭をなぞって耳の後ろに下りた。身長差の割に顔がよく見えるのは、カイナルが身をかがめたせいだ。

 そしてシュリアは。

 ずっと制帽で隠されていた場所に、黒のようで黒ではない、許されない色を見つけてしまった。

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