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風に揺られる植栽の梢すら、声を潜めて成り行きを見守っている。
(これは、様子を見よう…)
皺が寄るのも構わず、黒いお仕着せを握り締めて黙りを試みた。
その子供じみた作戦は、薄氷の如く簡単に踏みしだかれる。
「ここで何を?」
優しい口調に嵐の予感。
不気味な間合いが我慢できず、結局、追い立てられるかのように返してしまった。
「特に、何でもありません…」
(言うに事欠いて、何でもないなんて!)
せめて、感情を逆撫でしない言い方はないのか。
「シュリアさんは、何をされていたのですか?」
声が、一段と低くなった。
いつもと同じ丁寧な言葉使いが、余計に緊張感を煽る。
涼しさを感じるはずのない季節に、指先はかじかんだように動かない。
忘れていたのだ。
騎士の仕事は、迷子捜しや市中警備だけではない。いざとなれば人を殺めることもあると、そんな当たり前のことを。
まして最近は、護衛任務に燃やす情熱を他に回してくれないだろうかなんて思ってしまっていた。
優しいだけの、訳がない。
(怖い…)
答えようにも、口は上手く動かない。
怯えた様子を見て取って、守ろうとしたのはドービスだ。隠れているようにとシュリアを背後に押しやり、制帽の正面に立ち塞がる。
ところが、その態度がさらなる不興を勝った。
「君に用はない。下がりたまえ」
場合によっては実力行使に出そうな雰囲気を漂わせて、カイナルは、目障りな男気を頭から踏みつけた。
有無を言わせない喋り方に、王太子近衛の俺様貴族の顔が浮かぶ。
制帽の下の眼差しが、虫けらでも見るように眇められていたらどうしようか。
(…でも、カイナル様だってお貴族様だもの)
シュリアが知るカイナルなんて、きっと、ほんの一面にしか過ぎない。
貴族の部分は敢えて見せていなかったのだと、慣れた様子で命令を下されてやっと気付いた。
(私に合わせていただけなんだわ)
途端に、足元を崩す何かがシュリアを襲う。
それが悲しみだと理解する前に、冷たくなった指先で作業着の背中を握った。
(ドービスさんを行かせなきゃ)
下がるように言われたのは、ドービスだけなのだから。
カイナルという男は、こんな状況でも弁えた態度を崩さないが、ドービスに対しての保証はない。今の一言が良い例だ。
「お仕事に戻ってください、引き留めてすみませんでした」
「でも…」
「大丈夫です、私も戻ります」
強引に、背中を押し出した。
何度も振り返りながら、やっとのことで庭園通路を抜けた先輩を見届けて。
(…もう、いいかしら)
カイナルは貴族だ。
その事実は、本人がどれだけ平民に歩み寄ろうと消えないし、どれだけ親しくなろうと消せない。
(私が平民と分かった上で、あの約束をくれた人だもの。私も、ちゃんと自覚しなければ)
善意を享受するつもりなら、境界線を曖昧にしないこと。
そう理解しても。
一方的に怒られている現状には、やはり、納得がいかないのだった。
「そのお帽子、前が見えているんですか?」
どうせ怒られるのだから、何を聞いても同じだろうと開き直る。
思い出したばかりの境界線は、全体重をかけて押し潰してやった。
突拍子もない質問に意表を突かれたのか、若干、気配は和らいだ。
「その制帽、ずっと被っていらっしゃるのはどうしてですか?」
尋ねておきながら、答える隙は与えない。
「今さら制帽なんて不自然だと、誰にも言われませんでしたか?」
淡々と吐き捨てる言葉に、カイナルの反応はない。
「親しくなりたいだなんて…」
その問いかけは、答えを思い出して途中で飲んだ。
(「平民の」暮らしを知るためだって)
つまり最初から、立ち位置を明らかにしていたのだ。
自分は貴族なのだと。
(言われていたのに、私は…)
身分を弁えながら親しくするなんてこと、あの頃ならともかく、今はもう難しい。
気持ちを整理するには時間が必要だと、無防備な心に蓋をした。
(格好悪い…)
立場を忘れて浮かれていたくせに、勢いに任せて随分な言葉を投げたものだ。
人として得られた信頼すら叩き壊すつもりだったのか。
(そう、境界線よね)
無言を通すカイナルの前で、シュリアは頭を下げた。
「祝祭の戯れ言です。どうか、お許しください」
「シュリアさん…」
返事を聞くつもりなど、さらさらなかった。