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建国五百年を祝うお祭り騒ぎは、三か月もの長丁場を経て、今夜の大舞踏会で幕を閉じる。
主夫妻を送り出してしまえば終わったも同然だ。
昼下がりのミルデハルト伯爵邸は、脱力感や倦怠感といった緩い空気が漂っていた。
書庫の番人となって以降すっかり籠もりがちなシュリアは、久し振りに光を浴びて、エドルフに聞いた使用人用の庭園通路を歩いている。
背の高い植栽に覆われ、すれ違うのもやっとの広さしかないが、脇道と交差する度に風が通って気持ち良い。
(静かで、平和で、何よりだわ)
王族が連なる盛大なパレードは、今頃、南の海岸線辺りだろうか。何一つ聞こえない騒音めいた歓声に想像を巡らせつつ、足取り軽く進んでいると。
「やあ、シュリアじゃないか!」
偶然にも、すぐ先の脇道を折れてドービスが顔を出した。
「珍しいな、散歩か?」
「いえ、仕事です」
会いたくない人ほど縁があると言うが。
(これって、本当に偶然よね?)
小脇に抱えた仕事道具が、小道具ではないと信じたい。
「仕事かぁ。だけど、たまには外の空気も吸わないと! 見せたい場所がたくさんあるんだ。時間あるならどう?」
「ありません」
屋外が縄張りのドービスは、季節ごとに移り変わる庭園の見所を知り尽くしている。
今お勧めなのはどこそこでと、シュリアの答えも聞かず楽しそうに算段を立て始めたので、文句を言う機を逃してしまった。
「ちょっとだけでも! 今見とかないと、次は一年後なんだぜ?」
「仕事中ですから」
(相変わらず、話が通じない人)
ばっさりと全否定されたにもかかわらず、シュリアの気が変わるのを目を輝かせて待っている。
「仕事熱心なのはいい所だけど、根を詰めるのは良くない。エドルフが丹誠込めて作った庭なんだから、少しだけでも見てやってよ」
期待に満ちた邪気のない笑顔に、後ろ暗さは感じられない。
重そうな道具箱をがちゃがちゃ揺らして力説されると、つい、不覚にも、笑ってしまった。
「お、おお、初めて笑ってくれたな! いいよ、可愛い!」
そう言う自分の方が何倍も魅力的な笑顔だ。
大袈裟だと顔をしかめたものの、あまりに嬉しそうで、水を差すのが申し訳なく思えてきた。
この男は、話が通じないだけかもしれないとさえ。
(絆されちゃったかしら…?)
甘い顔を見せたがために押して押して押しまくるかと思いきや、しょうがないなと道具箱を抱え直したドービスは。
「今日はさ、初めて笑ってくれたから我慢する。今度、絶対、見に行こうな?」
愛嬌いっぱいに片目を瞑った。
そんなことを言われても。
いつもならば、今度も何もありませんと切り捨てただろう。
『今度見に行ってみましょう』
そう言ってくれた人が呼び起こされて、シュリアは黙った。
どういう気持ちで、その約束を口にしたのだろう。
(善意で誘ってくれただけ、なのよね)
カイナルは、珍しい石畳の意匠に興味を見せたから。
ドービスは、書庫から出ないシュリアを気遣ってくれたから。
そう考えると、自分の振る舞いが急に恥ずかしく思えた。
カイナルなら良くてドービスは駄目だと、対応を分ける正当な理由はあるのか。
「リーリアの妹」を利用してリーリアに近付こうとする無礼者は山ほどいたが、気遣いに溢れまくったドービスに、一度でもおざなりに扱われたことがあっただろうか。
(ドービスさんだって善意だわ)
その善意を、話を聞きもせず蹴り続けた。
(私って、自意識過剰…)
二人の気遣いを見比べて、カイナルなら良いと普通に思っていた自分が胸の奥でがっかりしている。
彼らの行動に違いはあっても、善意に差はないと気付いてしまったからだ。
(そ、そんなことに構ってる場合じゃなくて!)
ひどい態度を取り続けたのだ、何か言わなければ。
(相手にするなと、カイナル様はおっしゃったけれど)
あれは、シュリアの主観で愚痴を漏らした結果だ。あの愚痴を聞かされて、負の印象を抱かない訳がない。
「今度があれば、教えてください」
努めて友好的に告げると。
「俺はいつだって大歓迎だから! 秋の花も豪華だぜ。屋敷で働いてて見逃すなんて考えられないね!」
ドービスは、ぱっと顔を輝かせて二つ返事で請け負った。
具体的な予定を取り付けようと身を乗り出すドービスを宥め、仕事に戻るよう言い聞かせていると、進行方向から別の誰かがやって来た。
視界を塞がれているシュリアには誰だか分からないが、下草を踏む音の遅さに、これはドービスの仕事仲間に違いないと当たりを付ける。
こんな所で油を売る姿を見られたら、自分はともかくドービスはまずいのでは。
「ほら、そのお話は今度にしましょう!」
慌てて話を切り上げたところで。
シュリアさんと、空耳にしては低く硬い声で名前を呼ばれた。
そんな風に呼ぶ人間は一人しかいない。
事前に聞かされた今日の任務を考えれば、この時間帯に声を聞いても不自然ではない。
それなのに、つい空耳と思い込もうとしたのは、隠しようのない機嫌の悪さが…いや、機嫌の悪さを隠しもしない威圧感が、ドービスという盾を越えて肌に突き刺さったせいだ。
「ええっと…」
体をずらして首を伸ばす。
存外近くに見慣れた騎士団の制服があって、ことさら深く影を落とす制帽がシュリアを睨みつけている。
(怒っていらっしゃるわ…)
心当たりと言えば、言い付けを破ってドービスと立ち話をしていたくらいか。
(でも、使用人同士、そういうこともあるわよね?)
いくら何でも、すれ違うときに挨拶くらいは。
(それも駄目だった?)
相手にするなとは、一切口を利くなという意味だったのか。
(まさか、ねぇ?)
しかし、そんなことはないですよと、否定してくれそうな雰囲気もないのだ。
まとう空気と声だけで存分に怒りを伝えるカイナルを前に、ごくりと、唾を飲み込んだ。