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セジュール川を渡ると、足元が石畳に変わる。
市街地の表通りはどこも舗装されているが、王城前の広場には石を組み合わせて複雑な模様が描かれているのだとか。
今度見に行ってみましょう。
そんな風にさらっと誘われるものだから、立場の違いを忘れてしまう。
厳格な身分制度が生きるこの国で、側にいるのは護衛のため。どんな好意も前提があってこそ。
(この人が平民だったら…)
なんて、埒もない空想までも頭を過ぎる。
市場を出て、太陽の位置で空腹に気付いた二人は、セジュール川のほとりに並ぶ食堂に入った。
そこで、シュリアが遠慮がちに声をかけるまで、どこから見ても文句のない麗しの貴公子は肉料理の皿を凝視していた。
厳密には、皿の端っこに添えられた調理後のパウムを。
絵面的に、あれは居たたまれない。
意外な執念深さを垣間見て、意外でもないかと思い直す。
(今回の責任は、私にあるわよね…)
恐る恐るご機嫌を伺う声は、自分でも驚くような猫撫で声だ。
「あのぅ、カイナル様? パウムの臭いは後を引かないから、もう大丈夫ですよね?」
「え? ああ、失礼しました。そうですね、鼻が折れるかと思いましたが」
「乾燥させたパウムは、本当に良く効くんですよ」
「そうでしょうね、分かる気がします」
洗礼を与えたシュリアではなく罪のないパウムを目の敵にするところが、カイナルのカイナルたる所以と言えようか。
「どこの家でも、小さな子供にはパウムの洗礼を与えます。大事に扱うよう、体で覚えさせるんですよ」
「シュリアさんも?」
「私は…ライザフ兄さんに、一本丸々握り潰されました」
その激臭を想像したのか、カイナルが僅かに顔をしかめた。
シュリアも、思い出すだけで視界が歪む。
(子供時代なんて、碌な記憶がないんだけど)
尋常ならざる泣き方に飛んできた長兄が、温厚さをかなぐり捨ててライザフを叱り飛ばし。その隣で、困った顔のリーリアは肩を震わせ…笑いを我慢していた。
(姉さんは、いつもそう)
人を信じてはいけないと、幼心に刻んだ出来事である。
漂った気まずい雰囲気に、話題を振ったカイナルは少し早口になって。
「何事も、無知とは恐ろしいと考えていたのです。良い勉強になりました」
と、話をまとめた。
「建国五百年祭に便乗して様々な催しが開かれていますから、さすがに人が増えてきましたね。そういえば、先ほどの、すぐ変な人に引っかかるというのはどういうことですか?」
誤魔化すように次の話題を振った。
(微妙に、話が戻ってしまったのね…)
せっかく追及を逃れたというのに。
「…子供の頃、市場の祭りに連れ出されて、はぐれてしまったことがありまして。そのとき面倒を見てくれたおじいさんのことを、言っていたのです」
「そのおじいさんが、何か?」
「姉には胡散臭く見えたようで、拐かしじゃないか、変な趣味じゃないかって。とても親切にしてくれたのに、そもそも誰のせいだと思っているのか、本当にひどい話です!」
言葉にすると興奮が蘇り、何も知らないカイナルを相手にきつく吐き出した。
「シュリアさんは、そのおじいさんのために怒っていたのですね」
ふむ、と顎に手を当て。
何やら思案を始めたカイナルの隣で、シュリアの気炎が止まらない。
「心細いだろうって優しくしてくれただけですよ? 失礼にも程があるわ!」
(だって姉さんは、あなたのことまで!)
許せるはずがない。
カイナルを悪く言われたのだから。
吹き上げた怒りは、しかし、驚いて飛び退いた通行人を前に立ち消えた。
はっとして目をやると、当然ながらじろりと睨まれる。
「す、すみません…」
ここは市街地の目抜き通り。
シュリアは慌てて口を噤んだ。
「カイナル様、行きましょう…」
思考の淵に沈んだカイナルを、届くか届かないかの囁き声で呼び戻す。
「え? ああ、そうでしたね。ご案内すると申し上げたのに失礼しました」
あらためて微笑みかけられると。
いつもと同じようで、同じじゃないような、言葉にならない違和感が襲った。
(ど、どうしたのかしら?)
おかしいと思う感覚は指先で逃げていく。
優しいだけではない、含みのある微笑に目を瞬いた。
意味深なのは僅か数秒。
カイナルは確信犯だ。シュリアの戸惑いを悟っていながら、答え合わせはしないらしい。
市中警備の傍ら集めた情報を次から次へと披露するだけで、本音を打ち明けることもない。
(一体何だったの?)
しかもその説明は、シュリアが好みそうな催しばかりに特化している。耳を傾けているうちに違和感も手放してしまった。
(もう、あまり時間がないのよね)
残り半日でどこに行くか。
心が惹かれて決めきれずにいると、駄目押しの一言が背中を押した。
「時間が許す限り、全て回ってみましょうか」
どんな女性でも頷かずにはいられない、爽やかで罪な笑顔と共に。
さらにカイナルは、ダンスを申し込むように腕を折り、体を傾けてシュリアを見た。
「私とご一緒願えますか?」
冗談めかしたその姿に、埒もないと切って捨てたばかりの空想が呼び起こされる。
(私が貴族だったら…)
束の間の夢だ。
そうだ、これは夢だ。
ミルデハルト伯爵邸にやってくる華奢でたおやかな貴族令嬢を想像しながら、絹の手袋もなく日焼けした手で、その腕に触れる。
「はい、よろしくお願いします」
今を楽しむくらいの贅沢は、平民の自分にだって許されるだろう。
(私も貴族だったら…)
考えても仕方のないことこそ、いつまでも頭を離れない。
しかし、シュリアは分かっていた。
そう考えることすら虚しいのだと。