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 荒々しい足取りで三度目の角を曲がると。

「シュリアさん!」

 腕を掴まれ、何も教えられず引っ張られと、付き合わされたカイナルから声が上がった。

(さすがに、駄目だったかしら…)

 自覚があったシュリアは、足を止めると同時に腕を放して、恐る恐る振り返る。

「シュリアさん、どうされたのですか?」

 一筋の乱れもない紳士を見るに、声にも表情にも負の感情は窺えない。

(普通は怒るところじゃない?)

 カイナルが優先するのは、いつだってシュリアのこと。

 博愛か、親鳥に懐く雛か、まさかの恋情かは別として、特に秘めてもいない大っぴらな好意にはどんな鈍い人間だって気付く。

「リーリアさんと喧嘩ですか?」

 案の定、心配そうに覗き込まれた。

(カイナル様の方こそ、姉さんの態度で気を悪くしていないかしら)

 あの態度は本当に許せない。猫を被れとは言わないが、人として最低限の礼儀はあって然るべきだ。

(私なら、腹を立てるけれど)

 そう思うのはシュリアだけで、カイナルの関心はぶれることなく注がれている。

 ある意味、分かりやすい。

(喧嘩ですか、か)

 質問に答えるのは簡単だ。言った後の後始末を思って、二の足を踏んでしまうだけ。

(姉さんが、あなたを変人と呼ばわったからなんて…言えない)

 説明に困ることは煙に巻いた方が得策だと、短い付き合いでしっかり学んでいる。

「そういえば! 姉は、最後に何か言っていましたよね?」

「ああ、はい。パウムを買ってきて欲しいと。パウムとは一体?」

「ご存知ないですか? 生だとお肉料理の臭み消しに使いますけど、いちおう、立派な薬草なんですよ」

 料理をしない人でも知っている有名な香草だが、お坊ちゃん育ちのカイナルは初耳らしい。

 乾燥させて粉末状にしたパウムは、胃腸の働きを助ける薬になる。他にも胃腸薬に使える薬草は多いが、効能の高さで群を抜く。

 しかし、臭み消しになるだけあって、その香りも群を抜いて個性的だ。好んで使われることがないのは、効能を凌駕する悪臭のせいだった。

「じゃあ、先に市場に行って、お遣いを済ませてしまいましょう」

 話が逸れたことを幸いに、カイナルお坊ちゃまにパウムを見せて差し上げねばと口角を上げた。

 目指すは、セジュール川の手前に広がる東部地区最大の市場。

 元気になったのであれば良かったと、何も知らないカイナルは胸をなで下ろしていた。



 午前中ということもあり、市場はどこまでも買い物客で溢れていた。

 祝祭を前に財布の紐が緩む客と、かき入れ時と声を張り上げる売り手に挟まれ、目立つとか目立たないとか最早そういう次元の話ではない。

 はぐれては大変だからと手首を掴まれても、ときめく前に納得する。

 庇うように前を行くカイナルの背中を必死に見つめて、市場との相性の悪さを噛み締めた。

 何とか入手したパウムは、傷付かないよう厳重に包装されていたが無事だろうか。

 人混みを抜け、敷地の外れに並んだ長椅子に腰を下ろすと、心の底から溜め息が出た。

「すごい人でしたね。こんなに人が、どこから集まったんでしょう」

 紳士帽を被り直していたカイナルも、苦笑いを浮かべて答えた。

「市場の巡回は経験がなかったので、ここまでとは思いませんでした。これでは財布なんてすり放題ですね」

 実際、胸元目がけて手を伸ばした何人かは身をかわして睨み付けておいた。シュリアがいなければ返り討ちにしたところだ。

 周囲には同じように生還した人々が意識も虚ろに休憩中で、果汁水を売る屋台にはひっきりなしに客が吸い寄せられている。

 おもむろに立ち上がったカイナルは、一般客に交じって柑橘の果汁水を購入すると、くたびれたままのシュリアに手渡した。

「わぁ、ありがとうございます!」

 遠慮なく受け取って、一気に飲む。

 喉の奥で音を鳴らしながら飲み干すと、ようやく笑顔が弾けた。

「おいしい!」

 カイナルも果汁水を売る店主も、その姿に頬が緩む。

「私はもう大丈夫です。それよりパウムの方が…」

 微妙に顔を曇らせながら。

 手提げ袋に入れたパウムの包みを取り出し、慎重に包装紙を剥がしにかかる。

(何の香りもしないから、大丈夫よね?)

 パウムの葉は、細い枝に髭のような短い葉が密集して生えている。枝の長さは人差し指一本程度。ひとつひとつの葉は硬く肉厚で、触ると痛い。

 料理に使う場合は、葉の部分を傷付けないよう枝ごと鍋に入れる。そうしなければ大変なことになるのだ。

「あ、良かった」

 無事に姿を表したパウムを、一本、カイナルの目の前に差し出した。

「カイナル様、これがパウムです」

「なるほど。葉っぱと言うから、もっと違う形を想像していました」

「注意すべきは形ではありません。いいですか。生のパウムは、絶対に葉っぱを傷付けてはいけませんよ」

 何も知らないカイナルに何も教えず、自分だけは息を止め、人差し指と親指を顔から一番遠くの葉へ伸ばす。

 指に力を込めると、大した抵抗もなく、なされるがまま葉は曲がった。

 やがて弾力の限界が来て、ぷちっと潰れた感触がする。

 すると。

 興味深く観察していたカイナルが、瞬時に鼻を押さえ、顔をしかめて、体ごと仰け反った。

 鼻孔を襲った食品とは到底思えぬ激臭を想像すると、シュリアの眉尻も情けなく下がる。

「葉が折れると使い物にならないし、火を通さないと臭いがひどいんです。パウムの洗礼をご存知ないと伺ったので…ごめんなさい」

 瞬発性があって持続性のない臭いは、カイナルの嗅覚だけを破壊して去った。

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