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「ところで、ミルデハルト伯爵邸に勤めに出ると聞いたが」
お客様用の茶葉で淹れた紅茶は、長過ぎた保存期間が災いしてただの白湯と化していたが、気にすることなくルミエフが切り出した。
ちなみにライザフは、紅茶を用意している間に姿を消した。何の用事だったのか今となっては謎である。
「どこで聞いたの? まだお話をいただいたばかりよ」
木彫りのカップを握りしめ、思わず兄を凝視した。
ミルデハルト伯爵邸に庭師として出入りする長兄エドルフから、来る社交シーズンにちょっと働いてみないかと打診されたのは昨夜のこと。
「先日、伯爵が騎士団に足を運ばれてな。去年のリーリアに続いてお前まですまないと」
「わざわざ? 随分変わ…ええっと、優しい方なのね」
本物のお貴族様の前で暴言を吐くところだった。
商工業で成功した平民の台頭も著しい近年、旧態依然として前時代的な貴族は多い。しかし、中には、身分にとらわれない先進的な貴族もいる。平民出身の第三騎士団第一隊副隊長に話を通したミルデハルト伯爵は、きっと後者なのだろう。
それよりも。
(エドルフ兄さん、ちょっと働いてみないかじゃないわよ!)
パン屋の跡取りとして期待されていたにもかかわらず、いつの間にか庭師に弟子入りし、植物相手に才能を開花させたのがエドルフである。人と競うことが苦手な優しい兄は、物事をふわっと説明する癖があった。
まさか決定事項だったとは。
「どんな子かと尋ねられたので、教会で子供たちに勉強を教えている普通の娘とお答えしたが。それで、教会の方は大丈夫なのか」
確認できてもいないのに答えられる訳がない質問を向けられ、シュリアは言葉を濁した。
「お勉強といっても、大したことはしていませんから…」
「いや、子供とはいえ、勉強を教えるというのは重要なことだぞ。迷惑をかけないように」
そのままルミエフは、黙って聞いていた部下に事情を説明しているようで、カイナルが頷く度に制帽のツバと極彩色の飾り羽がぶわんと揺れる。
(カイナル様は、制帽がお気に入りなのかしら)
こんなに格好良い…感じの人がまさかと思うが、百歩譲って気に入っていたとしても、室内では脱ぐのが礼儀である。
しかし、ただの平民のシュリアが、お貴族様を相手に指摘できる話でもない。
「勉強を教えているとは、博学でいらっしゃるのですね」
飾り羽が横を向いた。
話しかけられたと気付いて、焦点を合わせる場所を探す。
「そうだな。我々兄妹の中で最も勉強熱心で博学だ」
兄の援護射撃は、天井に届くほどの過大評価だ。
「博学なんて、とんでもありません」
「人にものを教えるのは、口で言うほど簡単ではありません。謙遜される必要はない」
「謙遜でもなくて…」
東部地区では、男性同様に女性が働くのは当たり前だが、教職となると話は変わる。女が勉強を教えるなんてと白い目を向けられるのだ。たとえ奉仕活動の一環でも、料理や裁縫を教えるのとは訳が違った。面と向かって批判されたことはないが、否定的な目で見られたことなら何度もある。
こんな風に、手放しで賞賛されたことは一度もない。
「ミルデハルト伯爵邸は、一般的な貴族に比べると使用人が各段に少ないので、シュリアさんならきっと重宝されるでしょう」
口調は、まるで励ますかのようだ。
「伯爵は、生まれで人を区別することはありません。伯爵の方針が浸透した屋敷ですから安心してください」
真剣な眼差しにじっと見つめられている…気がする。
(制帽のせいで、様子が全く分からないわ…)
「そうなんですね、少し安心しました」
表面上は言葉どおりの微笑を浮かべて、カップを口に運んだ。
そこで、会話が途切れたのだが。
「ああ、制帽が気になるのか。カイナル、そろそろ脱いだらどうだ?」
言葉の続きをどう取り違えたのかルミエフが訳知り顔で促したせいで、和やかな空気はそのままにぴたりと動きが止まってしまった。