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 扉を開けると、胸に片手を当てた紳士が、絵画のような凛々しさで待ち構えていた。

 飾り気のない紺色の上下と濃い紫色のクラバット。常識的な大きさの紳士帽は、切れ長の目元をはっきりと見せる。

 嬉しそうに細めた目をシュリアに向けるのは、言うまでもなく、カイナル=ザックハルトである。

 素性を隠したつもりか、平民でも手が出せる余所行きの普段着に身を包んでいるが、滲み出た気品が素人ではない。

 どこから見ても、お忍び貴族のご子息様。

 そんな人にまじまじと見つめられ。

(き、緊張してきちゃった…)

 視線を泳がせ、動きの鈍い頬ではにかみながら、最初の一言を慎重に絞り出した。

「…お、おはようございます」

 するとカイナルは、脱いだ紳士帽を胸元に引き寄せ、僅かに腰を折り。

「おはようございます、シュリアさん。今日はご一緒できて光栄です」

 壁が崩落しかけた隣家を背に、礼儀正しい口上を述べた。

(大丈夫かしら? 私、変じゃない?)

 この時間になると人通りはまばらで、路地を入った暗がりを覗き見る人間もいない。

 まるで、この世界に二人きり。

 錯覚が、ぐんぐんと焦りを煽る。

「良いお天気ですね。一時期に比べると涼しくなりました」

 当たり障りなく喋る声すら、普段の彼ではない。

(涼しい?)

 むしろ、むせ返るような暑さに背中を汗が伝っている。

 嫌な汗だ。

 言葉どおりの涼しい顔を見る限り、暑いのは気持ち的なものだろう。

 シュリアのそわそわした様子に、カイナルは自分の装いを見下ろした。

「やはり、騎士団の制服にすべきでしたね。目立ちますか?」

「いえ、どちらでも目立ちますから…」

 地味な服を選んだつもりが甘かったようだと。根本的な思い違いに気付きもせず、反省の色を浮かべている。

 確かに、全体的な色味は地味だろう。

 しかしよく見ると、髪や瞳の色に合う生地は光沢が美しく、袖や裾の縁を羨ましいほど繊細な刺繍が飾っている。

 これは、平民が手を出せる服ではない。

 シュリアだって今日の装いは奮闘したが、隣を歩く我が身が恥ずかしくなるような、完璧な紳士振りではないか。

 どこかの伯爵令嬢が、権力に物を言わせて熱を上げたのも納得である。

「私服では帯剣もできませんし、ご不安に思われるかもしれませんね」

 その気遣いと自己評価の低さは犯罪級だ。

(帯剣した騎士と祭り見物なんて、あり得ないでしょう)

 どうしてこの人は、肝心なところに気付けないのだろう。

 建国五百年祭前の最後の休日。

 せっかくだから賑わう街を見て回ろうと、シュリアは思いついた。

 そして足取りも軽い帰路の途中、お休みは何かご予定がと尋ねられて、正直に答えたのがまずかった。シュリアと休みを合わせているカイナルが付き合おうとするのは当然で、引き下がらないのも当然のこと。

 正論を並べた説得に、分が悪いのはシュリアの方だ。じゃあ行かないと言えば遠慮するなと反論を受け、結局、約束を取り付けられたのだった。

 話が噛み合わない。

 そんな相手は、ドービス一人でたくさんだ。

 いや、それもそうなのだが、休みを合わせていたことにも驚きだ。

 交代要員だから仲良くしようぜと、色気たっぷりに微笑んだグレイドと、最後に夕日を見たのはいつだったか。

(やり過ぎと言うより…)

 良く言えば仕事熱心。

(もう、執念を感じるんだけど)

 こういう人が、妻の行動を何から何まで把握しなければ我慢できない、面倒な旦那様になるのだろう。

 それに、これだけの容姿なら、妻がいようと寄ってくる女性の影にも気疲れしそうだ。

(はぁ、奥様になる方は大変ね)

 期間限定の関係だから苦笑いで過ごせるが、生涯を共にする人は相当不自由するに違いない。

 実際に苦笑いを浮かべて、未来の奥様に同情した。

(羨ましいなんて、思わないわ。その頃には、この関係は終わっているもの)

 かける言葉を探していると、表通りに面したパン屋の方から、箒を手にしたリーリアがやって来た。

 朝の客足がひと段落して、店の前の掃除に出たところのようだ。

「シュリア、出かけるの?」

 大安売りの笑顔を引っ込めて、カイナルを避けるように険しい目が向けられる。

 いつもの猫はどこに行った。

 早く逃げろと、直感が明滅する。

「せっかくだから、お祭りを見に行ってくるわ」

 言いながら、カイナルの肘の辺りをそっと押した。

「そう。すごい人混みだから気をつけなさいよ。すぐ変な人に引っかかるんだから」

 聞き慣れた言葉も、カイナルを横目に見ながらでは意味が変わる。

 いくら姉でも、そんな風に言われる筋合いはない。

 シュリアは、嫌悪感を隠すために顔を伏せた。 

「じゃあ、行って来ます」

 カイナルの腕を乱暴に掴んで歩き出す。

「あ、悪いけど、パウムが切れてたから買ってきてね!」

 リーリアの声に答えたのは、僅かに振り向いたカイナルだけだった。

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