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 その日の帰り道。

 ミルデハルト伯爵邸の敷地を出た途端、溜まりに溜まった鬱憤は限界を迎えた。

 シュリアらしからぬ憤怒の形相に、もとより寡黙な質のカイナルは、制帽の飾り羽を揺らして相槌を打つので精一杯だ。納得するまで喋らせようと静観を決め込んだものの、ここまで怒らせた男が気になるところ。

 家路を急ぐ人々にとって、パン屋の娘と騎士の二人連れはもはや見慣れた光景である。おかげで好奇の目も向けられず、たっぷりと時間はあった。

 ひたすら喋り倒したシュリアは、セジュール川にかかる橋の上、胸を押さえて呼吸を整える。

「そのドービスとやら、シュリアさんは相手にしないでください。本当にリーリアさんが目的なのか、他に何かあるのか、騎士団の方で洗ってみます」

 重犯罪を彷彿させる物騒な表現に、我に返ったシュリアは慌てて体を起こした。

「そんな大したお話じゃありません!」

「いいえ、大した話ですよ。まるで探りを入れているかのようだ。あなたに何かあったら大変ですから」

 昼間、護衛騎士が問題だと思案したばかりなのに。

(やってしまった…)

 後悔しても遅い。

(ただの過保護なら、ルミエフ兄さんが止めてくれるわよね?)

 正直なところ、書庫の整理を始めた途端に接触を図られて、不穏なものを感じるのも事実。

 リーリアに気があると見せかけて別の目的があっても、見破れないのだから任せた方が無難だろう。

 そう納得させていると。

「ところで、グレイド先輩は何を馬鹿笑いされていたのですか?」

 突然の話題転換に、肩が跳ねた。

「グレイドさん、ですか?」

 不自然に泳ぐ視線を地面に落とし、ごくりと唾を飲む。

 好きでもない相手の情報を、どうして知りたがるのだ。

「シュリアさん?」

「ええっと、それも大したお話じゃなかったような?」

「何の話を?」

 しかも、やけに食い下がる。

(興味なんて、絶対ないくせに!)

 追及から逃れる話術など持ち合わせていないシュリアは、当たり障りのない部分だけを取り上げて、カイナル様に余計な噂が立たなくて良かったと微笑んでおいた。

「ああ、その話でしたか」

 納得した様子を見て、誤魔化せたことにほっとする。

「翌日には、問題のない部分だけは執事と侍女長に説明したそうですが。使用人は今でも誤解していますので、あなたをお迎えに上がると妙な視線で見られますね」

(何てこと、余計な噂が立っているじゃない!)

 他の使用人との接触が乏しいと、自分の噂すら入ってこないのだ。

(ドービスめ、知らないってことはないでしょうに!)

 余計な話ばかりで本当に役に立たないと、八つ当たりじみた苛立ちを募らせる。

「ご迷惑をおかけしていませんか?」

 どこの世界でも、悪い噂こそ光の速さで駆け巡る。命の恩人の評判を落とすような火種は、絶対にあってはならない。

「我が家の使用人にも箝口令を敷いています。男の私はともかく、あなたに不名誉な噂が立ってはいけない」

「そんなの、何をどう言われても問題ありませんから!」

(私の心配なんて、どうだっていいのに!)

 細やかな気遣いに身を竦めた。

 それに。

 幼い頃から屋敷に出入りしていた甥御様の春を、我が子のように喜んだ使用人も多いだろう。

「使用人の皆さんにも、ぬか喜びさせてしまったんですね」

 考えなしの自分に、溜息が止まらない。

「…まあ、仕方ありません。使用人にそのように思われているのは、身から出た錆ですから」

「え?」

 真意が分からず制帽の下を覗き込もうとしたが、意図に気付いたカイナルはすっと顔を背けた。

 制帽の飾り羽までが、シュリアを拒むようにふわふわ揺れる。

「カイナル様?」

「私が王宮騎士団を離れたので、不甲斐なく思われているのでしょう」

 シュリアは黙り込んだ。

 この話は、迂闊に相槌が打てないと察して。

「私は、見習い期間が終わるとすぐ王宮騎士団に配属されました。本来ならば伯爵家以上の家柄が求められますから、ミルデハルト伯爵家の顔色を窺った異例の待遇で、不満に思う人間はとても多かった」

 妬み嫉みは、高潔であるべき騎士の世界にも、むしろ家の面子がかかるからこそ陰湿に咲き誇っていた。

「転属を希望されたのは、そのせいで?」

 理由はそれしかないと決めつけていたシュリアは。

「いえ、まあ、それもありますが」

 煮え切らない答えに首を傾げる。

「…ありがたいことに、とある伯爵家のご令嬢から好意を寄せていただいたのです」

 出仕した父親に用事とでも言えば、その娘が王城に入り、王宮騎士団と接触するのは容易い。そうやって結婚相手を見つけたり、意中の相手に自分を売り込む令嬢は今も多い。

 件の伯爵令嬢も、ご多分に漏れず積極的な女性だった。

 茶菓子の差し入れに始まり、刺繍入り手巾の贈り物、晩餐や休日のお誘い、他のご令嬢にまつわる悪い噂の提供と、新人王宮騎士の元に日参しては周りの目も気にせず押し売りを続けた。

 丁重に断りを入れても、伯爵家の威信を傘に着た猛攻は過熱するばかりで、手に入らぬ物などないと強引に迫られる始末。

 何より問題だったのは、その令嬢には婚約者がいたことだ。

 しかも婚約者が、同じ王宮騎士団に所属する伯爵令息。

 以前から格下のカイナルを良く思っていなかった彼は、上位貴族の騎士を味方に付けて、婚約者を誑かされたと大いに騒ぎ立てた。

 というのが、転属に至る経緯だ。

 話し終えたカイナルは、唖然とするシュリアに向けて制帽の下で苦笑する。

「あなたには、そのような醜い世界が想像できないでしょう」

 想像できて欲しくないと、言っているようだった。

「伯爵家の名前を出されると、私には逃げ場がありませんでした。王宮騎士団を離れたのは、そのような世界に嫌気が差したからです。ご存知のとおり、髪も抜けてしまいましたしね」

 最後だけは、後味の悪さを払拭するような軽い口調だった。

「その後、ご令嬢からは?」

「王宮騎士団を離れた私に、用などありませんよ」

 夜会で何度か見かけても、目を合わされることすらなかった。もとより格上のご令嬢なのだから、文句を言うような話でもない。

 その極端な扱いの差に、覚えたのは虚しさだけだったと、カイナルは語る。

「随時と失礼な人ですね!」

 男性を見た目と肩書きで判断する女性は多いが、異性にそれほどの興味がないシュリアは断固反対派だ。

 そんな女性は禄なもんじゃないし、選ばれて喜ぶ男性も然り。

「王宮騎士団が何ですか! 騎士の皆さんは素敵です! 大変なお仕事だって私は知っています!」

 憤慨するシュリアとは対照的に。

 全てを吐き出したカイナルは、目許を和らげた。

 何年も味わったことのないこの充足感は、シュリアが怒ってくれたからだろうか。

 心が凪いで、少しむず痒い。

 もしも妹がいればこんな感じかと、優しい眦を釣り上げたシュリアを見る。

「兄上の気持ちが、私にも分かるようです」

「…どちらかと言えば、私は姉の立場ですよ」

「どうせ、年の差は三つでしょう」

 反論は、意外なほど不貞腐れた口調だった。

 昼間の熱気覚めやらぬ生暖かい風が、二人の頬を撫でて通り抜ける。

「三つでも、年上は年上ですから」

 言い切ったシュリアを、無言で、制帽が見つめ返し。

「…そうですね、失礼しました。では姉上、遅くなる前に帰りましょうか」

 たっぷり時間を置いて、カイナルは返した。

 冗談か本気か見定めようにも、日が沈む間際、深い陰を落とす制帽が心底邪魔だ。

 そもそも、再び制帽を被った理由をまだ尋ねていないことを、遅ればせながら思い出したのである。

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