21
一度は脱ぎ捨てたはずの、あの、幻の制帽を被っているではないか。
(もしかして、また?)
復活してしまったのだろうか…ハゲが。
「変態とは随分だな! 立ち聞きなんぞするお前の方が変態だ!」
ミルデハルト伯爵の言葉に、シュリアは内心で頷いた。
しかし、正論を突き付けられた方は、鼻息荒く憤慨する伯父を前にして軽蔑の眼差しを和らげず、むしろシュリアの前に立ち塞がって堂々と対峙する。
おかげでシュリアは、後ろ姿も大き過ぎる制帽が本当に役立たずであることを知った。
「結構な言われようですが、私は職務で立ち寄ったのです。伯爵を探していただけのこと。何か問題がありますか?」
「さっさと入ってくれば良かろう!」
「声を荒げるのは後ろめたいからですか? この家にシュリアさんを預ける以上、雇用主の趣味嗜好が異常というのは許されませんよ」
そもそも預けるのはお前じゃないだろうと、引き下がったミルデハルト伯爵がもごもごと呟くが、その時既にカイナルは伯父の方など見てもおらず。
「お前なぁ…」
無礼を怒るよりも呆れが先に立つ程度には、甥の態度は分かりやすい。しばらく静観しようとソファに座り直す。
伯父を見事に振り切ったカイナルに向き直られて、黒い双眸があるはずの位置を見ながらシュリアは悩んでいた。
こんな時間にどうしたのか。
その制帽は、やはり趣味だったのか。
大きなツバに隠され、表情が見えないというのは心底喋りにくい。
「良いですかシュリアさん、伯爵と二人きりにならないよう、くれぐれも注意してください」
がっしり掴まれた両肩が痛い。
(メイドの分際で、何をどう注意しろと…)
一体、何から守るための護衛なのだ。
家族にすらされたことのない構われ方に、ここに来て、愛想笑いが引きつった。
これが護衛というものなのか?
答えを求めた先には、我関せずといった様子のミルデハルト伯爵が薄い笑いを浮かべている。
(あなたの甥御さんですよ!)
この人を何とかしてくれと、年長者に熱い視線を送っていると。
「シュリアさん? そんな風に見つめるのは止めた方が良い」
過保護振りに拍車を掛けた。
「で、お前は一体何の用だ?」
ようやく背もたれから体を起こしたミルデハルト伯爵が、甥の不調法を諫めるべく用件とやらを問いかける。
護衛騎士というには行き過ぎた態度に、身内に甘い伯父も鼻の頭に皺を寄せた。
本当に仕事だろうか。
同席する二人が奇しくも似たような思いを抱く中、疑われていると思ってもいない当の本人は。
「明後日の件で、何点か確認があります」
制帽の飾り羽を揺らして、しれっと答えた。
「…仕事だったのか」
「そう言いましたが? シュリアさん、私はこの後騎士団に戻りますが、夕方にはいつもどおり参ります。ご安心ください」
伯父の隣に腰を下ろすと、本当に仕事の話を始めたのである。
仕方なくシュリアは、奥の書架へと歩みを進めた。
席を外さなくて大丈夫と言われても、それなりに遠慮すべきところだろう。聞くつもりはありませんという意思表示だ。
ところが、時間にして僅か数分。
すぐに呼び戻されてしまった。
(ええっ? たったそれだけの用事?)
「明後日の午後、この家の「歴の書」を取りに近衛が参ります。屋敷の警備は騎士団が当たりますが、念のため、あなたはここに籠もってください」
前置きよりもずっと短い仕事とやらに言葉もないシュリアの横で、ミルデハルト伯爵は甥の横顔を盗み見た。
王太子近衛隊が動いている事実を、知らせていることに気付いたからだ。
「私は伯爵の方に立ち会いとなってしまったので、ここは騎士団の誰かを寄越します。書物の引き渡しだけですから時間はかかりません」
たった一冊の書を渡すだけで、わざわざ騎士団まで動かすという。
(伯爵様は王城で役職を持たれているのだから、お仕事の際に渡せば簡単なのに)
時間も労力も無駄なことをするものだと、茶色い瞳に浮かんだ思いを鋭く見て取ったカイナルは言葉を足した。
「誰だって、自分の縄張りで面倒事は起こされたくないものですよ」
「…なるほど」
ミルデハルト伯爵邸で起こる面倒事は構わないということだ。
「私としては、「闇の光」がどうしようと立派な損失だがな」
知識は宝と主張するミルデハルト伯爵が鼻白んだ。
預けるのがどんな書物だとしても、適当な理由を付けて二度と返されることはないだろう。
「伯爵、近衛に渡す書物は決まったのですか?」
「ああ、実は…ちょっと待ってろ」
言い置いて、書庫の闇に一度消えると。
「これは、四代目当主が古代魔術語で書いた随想録、と伝わっている。奴らの狙いはこれだろうよ」
重厚な扉ほどの厚みがある書物を、二人の前に差し出した。
カイナルが、黒ずんだ革表紙に手を触れ、受け取った書物を長い指でゆっくり捲る。
どうせ解読できないシュリアは、羨望の眼差しでその様子を見ていた。
「カイナル様は古代魔術語がお分かりに?」
「いいえ、あまり、分かりません」
そんなやり取りを見守って、ミルデハルト伯爵は言い伝えを口に乗せる。
「私も古代魔術語はさっぱりでな。曾祖父の時代にこれを読んだ学者は、恋物語だとぬかしたらしいぞ」
「何ですかそれは?」
「私に聞くな。曾祖父も古代魔術語は駄目だったから、本当かどうかは怪しいものだ」
そうは言っても解読できない以上、その学者の弁を信じるしかない。
「噂のとおり四代目に魔力があったとしてだ、どこで古代魔術語を習得した? 魔力があれば文字も書けるのか?」
口振りから、由来の信憑性を疑っているようだ。
真相を解明するには時代が古過ぎる。
(そもそも、四代目のご当主様が書いたとは限らないか…)
「歴の書」と目されるなら四代目当主と考えていたが、言われてみれば不思議である。
もっともな指摘に考えを改めたシュリアに向けて。
「いいえ。これは、ファビエル=ランド=ミルデハルトが書いたものです」
カイナルが断言した。
(私、言った? 喋ってた?)
慌てて見上げた顔は、相変わらず制帽の向こう。
「そういう風に伝わっているからな。狙われるならこれしかない。というか、古代魔術語で書かれた書物はこれしかないはずだ」
「伯父上、ですがこの書物は…」
言い淀んだカイナルは、表紙を捲ってすぐの頁を指して、歌うように読み上げる。
「闇の先に光を見つけよ、光の先に己を見つけよ、影を失いしいつかの君へ、しるべとなりて背を守る…四代目が子孫のために書き残し、代々の当主が守り伝えたものではありませんか」
(カイナル様、すごいわ!)
今や、古代魔術語が読める人間など、国中探しても片手の数しかいないだろう。
(読めないなんて、謙遜だったのね)
古代魔術語を淀みなく翻訳された興奮で、驚いたシュリアは内容どころではない。
それに。
制帽の下からちゃんと文字が見えていたことにも、若干の感動を覚えたのは仕方がないだろう。
一方でミルデハルト伯爵は、当主の義務を言い当てられたことに驚いていた。話したことがあっただろうかと、記憶を探る。
「であれば、この先も、当主が守り残すべきでは?」
「…あ、ああ、そうだな。この書は当家で守るべきだ。王家には、これを模した別の書を用意しよう」
ぽっかり穴が開いたように、何故か記憶を辿れない現当主は上の空で返事をする。
明後日の午後までに、偽物を用意すると。
「で、でも、伯爵様、四百年も昔の書物ですよ?」
経年劣化まで真似るのは難しいだろうと言いかけたところを。
「どうせ真偽など誰にも分からないのです。それらしく古い書物であれば、たとえ頁が一枚しかなくとも問題ありません」
どういう自信なのか、カイナルが押し切った。
軽い語り口に誤魔化されてはいけない。これは、王家を欺く大罪だ。
(もしも発覚してしまったら…)
どんな罰が待っていることか。
期せずして不穏な画策に加担したシュリアには、もはや、祈る以外に道はない。
(どうか、泥船じゃありませんように)