表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/50

20

「今日から、書庫の整理をいたします」

 使用人部屋に着いて、朝一番。

 待ち構えていたサリエル夫人に宣言されたのは、社交シーズンも折り返しを過ぎたアーグ月の半ば。

 よりにもよって、土砂降りの日である。

 雨除けのコートを頭から被ってきたにもかかわらず、水滴が次々と毛先を伝う。床にできた黒い染みに目をやると、言葉が思わず口をついた。

「今日、ですか?」

 王立図書館にも引けを取らない、貴重な書物が眠ると噂の書庫である。

 古い書物は、それだけで破損しやすいのだ。

(わざわざ、こんな雨の日に?)

 雲一つなく晴れた日ならいくらでもあっただろうに。

「本来、あなたにお願いしたかったのはこの作業なのです。今日になってやっと時間が取れたので、何としても手を付けねばなりません」

 二の足を踏んだシュリアへなおも言うと、珍しく興奮気味に、使用人部屋から連れ出した。

 引っ張られるような勢いは、転ばないよう注意するので精一杯だ。

 ただでさえ暗い一階北側の廊下。今日のような天気の日は、炭で塗り潰したように暗い。

 足元にまとわりつく淀んだ空気を蹴散らして、歴代当主の前を足早に過ぎる。

 ちらりと見上げた四代目当主の瞳は、やはり黒かった。



 初めて足を踏み入れた噂の書庫は。

 床から天井まで、端から端まで、壁紙を覆い隠すように背表紙が並んで、聞きしに勝る蔵書数だ。

 これを、修繕しながら分類して蔵書目録を作る。

 さらっと告げられた作業内容に、涼しい顔のサリエル夫人を二度見した。

(これ、全部?)

 エドルフの誘い文句は、社交シーズンの働き手ではなかったか。ちょっと働いてみないかではなかったか。

(一生かかっても無理でしょ!)

 仕事内容の解釈に齟齬があるようで、書庫の扉を背に立ち尽くした。

 入口近くには簡素なソファセットが置かれている。しかし、基本的に本を読む場所ではないようで、ソファセットもシュリアの心も書架の存在感に押し潰されそうだ。

「まず、作業場所を確保するところから始めましょう」

「あの! 私はどこまで、その作業に携わって良いのでしょうか?」

 これだけの量だ。平民には見せられない書物もあるだろう。

 何より、いつまでミルデハルト伯爵邸に勤めるのかという大問題が横たわっている。

 非常に重要な局面で、視線を合わせたサリエル夫人はいとも簡単に答えた。

「もちろん、終わるまでの予定です」

 やはりそうか。

(…教会にちゃんとお断りして、エドルフ兄さんに文句も言わなきゃ)

 一生かどうかは別としても、一夏で終わる量ではない。

「男手が必要な場面もありますから、その都度応援は付けます。急がせるつもりもありません。空気が悪いので、適宜休憩を入れて作業してください」

 教会の空気にも似通った、古紙が醸し出す埃っぽい空気は嫌いではない。だが、延々吸い続けるのは体に悪そうだ。

 換気するにしても、書架の隙間の小さな窓では、光さえ満足に入らないに違いない。

「この季節のように、他の部署で助けが必要な場合は臨機応変に対応してください」

「…はい、分かりました」

 感慨深く、闇が広がる書庫を見渡した。



 ソファセットを隅に追いやり、女性の裸体や騎馬の彫像が置かれた飾り台も同じように動かして、何もない一角を確保した。

 教会でも似たような作業を毎年行うので、一から十まで指示されずとも何とかなりそうだ。

 サリエル夫人もその様子を感じ取ったのか、昼休憩の後はシュリアだけとなった。

(とりあえず、この広さで大丈夫かしら)

 先々のことはまた考えよう。

 次は、床と書物を保護するために敷物が欲しい。

(サリエル夫人にお願いしておけば良かったわ)

 敷物の保管場所を思案していると、軽やかに扉を叩き、ミルデハルト伯爵その人が姿を表した。

「やあ! やっと始まったな!」

 両手を腰に当て、移動された調度品を見ながら機嫌良く笑う。

 慌てて頭を下げるシュリアに手を振り、開けた空間を悠然と横切ってソファに腰を下ろすと。

「祭りに浮かれた連中に襲われたと聞いたが、もう大丈夫かね?」

 足を組みながら、何気なく尋ねた。

 顔中を不機嫌に染めた甥っ子から聞いたとおり、見た目に分かるような傷はなく、一見すると何もなかったかのようだ。

 しかし、この短期間に二度も襲われた女性の心情を慮ると、娘を持つ親としては心が痛む。

 ましてシュリアは未婚。

 男性不信に陥らぬよう、願わずにはいられない。

「私としては、君に来て貰ったのは書庫を頼みたいからで、そのせいで災難に見舞われてしまったことを申し訳なく思っている。だが、このとおり、ここには膨大な量の知識が眠っている。これらの知識を喉から手が出るほど求める者は、必ずいるだろう。そのような者たちに、我が家の財産を活用してもらいたいのだ」

 書物という名の知識は、生かされてこそ価値がある。

 五百年もの歴史が乱雑に積み込まれたミルデハルト伯爵家の書庫は、知識の寝床であり墓場でもあった。

 その状態を、長年に渡って悔しく思っていたのだと。

 これらの知識が、想像を超える未来を生み出すかもしれないのだと。 

 夢見るように語られて、その熱意に、シュリアの体にも熱が灯る。

「君の話はよく聞いていた。幼い頃から多くの書物を読み、独学で薬草術まで習得したとか。うちの娘なんぞ文字を見るのも嫌だと言っていたのに、立派なものだ」

「…お恥ずかしい限りです」

「こんな言い方は好きではないが、平民でありながらも書物を愛する君ならば、価値を分かって貰えるのではと思ってね。さらに言うと、身分の別なく貸し出すことに偏見を持たぬ人間が良い。残念ながら、そんな人種は貴族社会の少数派だ。ここはもう、君の手を借りるしかないだろう?」

 父よりも年上のミルデハルト伯爵に片目を瞑って同意を求められ、自然と緊張が解れていく。

 カイナルには探せない可愛らしさが、この伯爵の魅力だろう。

「どうだね、君の人生を私が買おう」

 茶目っ気はそのままに、嫌らしい意味はないと注釈を忘れず、両手を大きく広げてみせる。

 それは、雇用主からの正式な依頼だった。

 シュリアが教会に通ったのは、誰かの未来を作って、何かを未来に残す、その手伝いをするためだ。

 子供たちのために何かができること、喜んでもらえることを、自分の喜びと感じていた。

 あらためて、伯爵の誘い文句を胸の内で繰り返す。

(教会でお勉強を教えるのと、根っこの部分は同じなんだわ)

 相手は物言わぬ大量の書物だが、作業が意図することは同じだ。

 シュリアの微弱な力でも、誰かの助けとなるならば。

(こんな贅沢なお話、私がお受けしてもいいのかしら)

 仕事として携われるなんて、夢のようなお誘いではないか。

 女の身で、しかも本人の意向を確認してもらえることも、普通では考えられない。

 それに。

(…伯爵様は、私にとおっしゃった)

 ぽかぽかと、温もりに満たされた胸を押さえる。

 理屈ではない。

 君に頼みたいと望まれることが、こんなに嬉しいだなんて。

 初めて味わう感動にこれ以上なく顔を綻ばせ、出方を待つミルデハルト伯爵へ返事をしかけた、その矢先。

「まるで変態のようですね」

 扉の開閉音より先に声がして、ぎょっと目を見開いたシュリアの前に。

 騎士団の黒い制服を身にまとったカイナルが、颯爽と現れた。

「シュリアさん、気を付けてください。我が子ほどの女性をどうこうする趣味は、伯爵にはなかったはずですが。例外ということもありますから」

 あっという間に隣に立ち、真面目に伯父を非難する護衛騎士を呆然と見上げて。

(…何で?)

 顔半分を隠す邪魔な存在に、目が釘付けになった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ