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(どうして、その制帽を…)
異常に広いツバがとにかく邪魔と、悪評高い逸品である。
片側だけ大きな鳥の羽が突き刺さる珍しい意匠は、五百年前に大流行を巻き起こした有名作家の作品。しかし、何をするにも視界を覆うツバが邪魔なことこの上なく、任務遂行に支障をきたすため、今では着用禁止が暗黙の了解なのだとか。
この家のどこかにも二個ほど永眠しているはずだ。
客人の出で立ちを批判してしまいそうで、制帽から視線を引き剥がした。
全体をよく見れば、推定される身長や肉付きは姉が豪語する婿の条件を満たすだろうし、どこかの愚兄とは絶対的に異なる誠実で紳士的な雰囲気が漂っている。制帽の件が気にならなければ、姉にとって好物件に違いない。
(でも、この人、パンをこねるかしら)
そんな考えを遮るように、感情の起伏に乏しいルミエフが相変わらずの平坦な調子で声をかけた。
「お帰り。私たちも来たところだ。教会の方は良かったのか」
「大丈夫です。遅くなってごめんなさい」
この辺りの教会は、昼の間、基礎学校にも入学できない幼い子供たちを預かっている。シュリアはそこで、奉仕活動に勤しむご婦人方に交じって簡単な読み書きを教えていた。
「お前だって都合がある。無理を言ったのはこいつだ」
そう言ってライザフを顎で示すところから察するに、シュリアに用があったのは愚兄の方なのだろう。
そこに、見極めを急ぎたいリーリアが高い声で割り込んだ。
「ルミエフ兄様、そちらのお客様は?」
人好きのする笑顔に、婿の見込みがなければ用はないという打算がありありと見て取れる。
しかしルミエフは、リーリアの様子に頓着することもなく、件の客人に合図を送った。
「初めまして、カイナル=ザックハルトです」
耳障りの良い声で紡がれたその名前に、姉妹は息を飲んだ。
「彼は、この春から第三騎士団に転属して我が隊に所属している。シュリアより三つほど年下だったか」
「先日二十歳になりました」
この国で名前に家名が付くのは貴族だけ。
長い歴史を経て身分の垣根は低くなったと言われても、貴族への抵抗感は簡単には拭えない。
空気が硬直したのを感じ取ったのか、カイナル=ザックハルトと名乗った客人は、制帽を軽く浮かせて会釈した。
(顔っ!)
予想どおりの整った顔立ちがちらりと覗く。
「副隊長には、転属の際からとてもお世話になっています。本日はお言葉に甘えてお邪魔しています」
特権階級を鼻にかける様子もない話し振りと、喋る度に揺れる制帽の滑稽な様に、知らず肩に入っていた力を抜いた。
「カイナルの家は子爵家だ。四男だったか?」
「いえ、三男です。私が末の息子なので四男はおりません」
家名を聞いてもさっぱりのシュリアでも、子爵家が貴族階級において下から二番目に位置する家ということは知っている。
(本物のお貴族様が目の前に!)
すると、同じように固まっていたリーリアがこてんと首を傾げて。
「そうですか。じゃ、ごゆっくり」
あっさりと店番に戻った。
「カイナルは第一騎士団に所属していた。転属したからには庶民の空気に馴染む必要があってな」
(第一騎士団って言ったら王宮騎士団じゃない!)
リーリアの変わり身もシュリアの驚きも気にせず、ルミエフが説明を続ける。
ライナルシア王国が擁する騎士団は、大きく五つの部隊に分けられている。そのうち、高位貴族の子弟のみで構成される第一騎士団は、王城の警備や貴人の警護を任務としており、広く王宮騎士団と呼ばれていた。一方で、貴族と平民の混合部隊である第二騎士団以下は、王都ザファルを含めた王国全土を四つの地域に分け、三年ごとに巡回して警備に当たる。
島国故に外的に脅かされることがなかったこの国では、武力といえば騎士団しか存在しておらず、犯罪の取り締まりや迷子探しなど、職域は非常に広い。
「悪いなカイナル。あいつ、婿さん募集中でさ、婿になりそうにない相手には興味ないんだわ。貴族じゃパン屋は継がんだろ? 態度の悪さは大目にみてくれ」
騎士団の教育の賜物で礼儀という技術を身に付けたライザフが、机にもたれたまま、薄い栗色のふわふわ頭を掻いて面倒臭そうに言った。
律儀にも頷いてみせるカイナルに、好感度の上昇が止まらない。
(いい人そうなんだけど…)
制帽が邪魔をする。
王宮騎士団といえば花形部隊。そこから転属したということは、何か理由があったはずだ。
(その理由、制帽が関係しているのかしら)
膨らむ勝手な転属劇を、頭を振ってたしなめる。
(駄目よ、誰だって秘密にしたい過去があるわ)
「カイナル、先ほど出て行ったのは上の妹のリーリア。そして…」
紹介を続けようとしたルミエフの視線を受けて。
「初めまして、末の妹のシュリアです。お茶を用意しますので、ごゆっくり」
リーリアのような華やかさはないけれど、シュリアの心が込もった歓迎に、カイナルがやっと表情を緩めた…ような気がした。