18
騎士団ザファル支部を出たのは、昼間の熱気に夜の足音が混じるあわいの刻。
最後の夕日が作る自分の影を踏みながら、言葉少なく並んで歩く。
昼間の事件は、犯人を尋問したルミエフが「闇の光」の仕業ではないと断定した。
建国五百年祭を前に増えた諸々の犯罪と同じく、いずれ、粛々と処理されるそうだ。
幸いにも、命令違反を犯したカイナルに対する処分は、そもそもの護衛任務が公にできないことで不問に処された。
次はないと思えと、地を這うルミエフの声が耳に残る。
「喉の痣が、早く消えると良いですね」
破られた襟ぐりを隠すため、借りた上着を胸の前でかき抱き、俯きぎみに歩いていたシュリアの頭上。
落とされたのは、独り言のような呟きだった。
「…今夜は、薬草を当てて寝てみます」
青痣を早く消すには、薬草を三種類ほど練り混ぜて患部に塗布すると良い。自分で試したことはないが、幼少期のライザフを見る限り効果があるはずだ。
「そうでした、シュリアさんは薬草にも明るいのでしたね。我が家の執事が驚いていました。彼が人を誉める姿なんて久し振りに見ましたよ」
それは、ザックハルト子爵家に突然お邪魔した夜のことだ。
「あの日は、薬草を得意にする使用人が不在にしており、大変失礼しました。何の役にも立たなかったと聞きましたが…」
確かに、擦り傷の手当てにと頼んだはずが、あらゆる種類の薬草を手当たり次第持参されて戸惑った覚えがある。
初老の執事の下がった眉毛に、シュリアの方こそ恐縮したのだ。
「手際の良さも、本職に負けていないとか」
誉め言葉が胸を抉る。
(執事さまは、本当は何と伝えたのかしら)
お世辞か社交辞令か、暗に責めているのか。
(女のくせに出しゃばるなって、カイナル様も思っていたら…)
こんな時に限って、子供の頃に投げつけられた侮蔑の言葉まで思い出すのだから始末が悪い。
自信を失って、残ったのは疑心暗鬼だ。
怖くて、顔を上げる勇気もなかった。
そんなシュリアを窺いながら、何気ない振りを装ってカイナルは続けた。
「薬草はどちらで? 独学ですか? 王都で治癒師は見かけませんよね」
田舎に行けば、どこの村にも必ず一人は治癒師がいる。王都で言うところの医師と補助医師、薬草師の役割を一人で担う彼らは、王都から遠ざかるほど医療技術が届きにくいこの国で、必要不可欠な存在であった。
シュリアの祖母は治癒師の娘だ。王都に住む祖父の元に嫁いだ後も、家族のため、狭い庭先で薬草を育て続けた。
調合方法や薬効をまとめた祖母の手記は、幼いシュリアの遊び道具であった。
「でも。私が生まれた時には祖母は他界していたので、私のやり方が合っているかは分からないんです」
ひどい話だが、ライザフが無事に大人になったのを見て胸をなで下ろしたものだった。
「治癒師は任命試験もありませんからね。しかし、その知識でご家族を助けて来られたのでしょう?」
「はい、まあ、多分」
「今、ご家族の皆さんが健やかでいられるのは、あなたの頑張りのおかげです。生業にしている訳でもないのだから、十分じゃないですか」
不安に思うことはないと、強く言われて顔を上げた。
降り注ぐ優しい眼差しを、真正面から見つめ返す。
(本当に?)
励ましに嘘はないのか、あなたは大丈夫と背中を押してくれるのか、カイナルの真意を読もうとした。
弱り切った自分が無意識に伸ばした手は。
(私、今、何を考えていたのかしら)
届く前に引き寄せた。
相手は三つも年下で、貴族。甘えて許される人ではないのに、見境もなく価値を認めてもらおうなどと。
そんな葛藤も知らず、シュリアの眼差しが上向いたことで、カイナルはほっとしていた。
「兄上があなたを守ろうとするのは、今のあなたが大切だからですよ」
しかし。
何気ないその一言が、シュリアの足を止めた。
(兄さんが私を守ろうとするのは?)
知っている。大人になったシュリアはちゃんと理解している。
(でも、あなたは?)
ルミエフが言うには、港での任務中、本当に唐突に、血相を変えたカイナルが任務を離れると告げたそうだ。どのみち早めに切り上げる予定だが、それにしても早過ぎると理由を尋ねたものの、時間がもったいないとばかりに馬に飛び乗ったとか。
そのまま市街地を疾走したカイナルを、やむなくルミエフも追いかけた。
ライザフが頼んだ使者は、繁華街にほど近い路上でルミエフと行き会ったのだから、任務中のカイナルがシュリアの危機を知る由もない。
なぜ分かったのか?
上官の問いに、任務に忠実な男は、答えられないとだけ答えた。
そんなおかしなことがあるだろうか。
思い起こせば夜会の日。
なぜ、絶妙な場面で現れたのか。
私はなぜ、現れたあなたの姿が見えたのか。
この違和感は、偶然で片付けられるのか。
(あなたが私を守るのは?)
首をもたげた不信感が、芽生えたばかりの信頼を食い千切りそうだ。
「あなたは?」
「私が、何か?」
「ザファル支部に戻ると言い出したのはどうしてですか? 答えられないって、私たちには秘密という意味ですか?」
不安に揺れる茶色い瞳。そこに映る自分の姿を、カイナルはじっと見ていた。
「私を守ってくださる側じゃない、ということですか?」
年上とは思えない頼りない表情で、喘ぐように答えを求める様は、言葉で責められるより遥かに胸を突く。
「…全力を賭してお守りすると誓ったとおり、私はあなたの護衛です」
呪縛を断ち切るように絞り出した声で、守れなかった男が言う台詞ではないけれどと茶化した。
「紛らわしい言い方をしたのは、私自身が整理できていなったからです」
昼間は、天啓のように脳裏を走った焦燥感で、シュリアを襲う危機を悟った。呼吸すらままならず、あまりの苦しさに、震える指で制服の胸元を鷲掴んだ。
とにかく、すぐに駆けつけなければと。
それが何だったのか、カイナルこそ説明が欲しい。
「じゃあ、どういう意味なんですか?」
上手い言葉が見つからず黙り込んだところを、シュリアが追撃する。
あなたを信じたいと言われたようで、迷いは晴れた。
言葉を選ぼうとするから難しくなるのだ。
シュリアなら、多少体裁が悪くても受け止めてくれるのでは。
いや、受け止めて欲しい。
ささやかな希望を隠して、殊更ゆっくりと喋り始める。
「満足していただける答えではありませんが、それでも?」
シュリアは、力一杯頷いた。