16
ミルデハルト伯爵邸は、王城にほど近い古式ゆかしい邸宅街に位置している。
騎士団ザファル支部に向かうには、市街地の中心を貫く大通りに出て、真っ直ぐ南下するのが最短距離。
普段は通らない道を頭で確認すると、気分を変えたいこともあって、深く考えず歩き出した。
ところが。
ザファルでも一番の繁華街は、社交シーズンの締めくくりに開かれる建国五百年祭に向け、本当にあちこちから人が集まっているのだろう。
沿道を埋める商店には人垣ができ、何を売る店かも分からない。
夏の昼下がりだからと楽観していたが、とんでもない人出である。
(遠回りでも、いつもの道から来るべきだったわね…)
人の波に辟易して、安易な選択を後悔した。
(遠回りだけど、セジュール川の土手に回ろうかしら)
このままでは窒息しかねない。
未だ見えない騎士団の建物を探して、一心に前だけを見ていた。
不意に、どんっと横から体当たりを食らい、数歩よろめいて、踏みとどまる。
(な、何かしら?)
視線を彷徨わせた先に、シュリアを見つめる男がいる。
咄嗟に謝りかけて、しかし、息を飲んだ。
暗い眼差しと痩せた頬。
東部地区でも滅多に見かけない貧しい身なりで、口元だけを笑みの形に吊り上げている。
不安に襲われて周りを見回すと、少し距離を置いた路上、仲間と思しき似たような連中がシュリアを囲んでいた。
それなのに、息苦しいほど溢れていた人影は痕跡もない。
(まさか、裏通り!)
考えることに疲れた頭は、表通りの石畳が途切れ、砂利道に足を踏み入れたことすら気付かなかったのだ。
街の喧騒は遠ざかり、鼓動の音が忙しなく耳をつく。
いくら市街地でも裏通りには立ち入るなと、いつだったか、カイナルから注意されていたのに。
(どうしよう、どうしたら…)
何はともあれ、逃げなければならない状況にあることだけは分かっていたが、四方を囲まれた上に足が震えて立ち竦んでしまった。
その間にも、身動きがとれない獲物をいたぶるように、男たちは一歩ずつ距離を詰める。
最初にぶつかった男が目の前に迫り、シュリアの腕に手を伸ばした。
触れた場所から、ぞわりと悪寒が走る。
反射的に、掴まれた腕を引き寄せ悲鳴を上げようとしても、引きつれた音は言葉にならない。
(嫌だ! 怖い!)
明るい世界でじわじわ迫る恐怖が、体の自由を奪った。
「こんな所、歩いてちゃいけないなぁ」
生臭い息と危うい呂律。
視界いっぱいに、近付いた黄色い歯が映る。
「二度とお家に帰れなくなるんだよぉ」
もう一方の手でシュリアの髪を弄びながら、狂ったように男が嗤う。
正面に気を取られていると、背後から肩を掴まれ、振り払う間もなく世界が揺れた。
(痛っ!)
背中に受けた衝撃を目を閉じてやり過ごし、再び見開くと、青空を塗り潰すように醜悪な顔が見下ろしている。
(何なの? これ、何なのよ!)
衣服に手をかけられて、逃げなければという意識がようやく戻った。
「放して!」
走る痛みに構わず、押さえつけられた手足をばたつかせる。
もとより、力で勝てるとは思っていない。
無我夢中で暴れた甲斐あって、一人か二人は振り払えただろうか。
それが限界だった。
奇跡は、滅多に起こらないから奇跡なのだ。
「うるっせえぞ!」
伸ばされた大きな掌が首元を圧迫する。
(そんなに強く押したら…)
指が食い込んで、空気を遮断する。
痛いとさえ言うことができないこの状況で、どんなに抵抗しても、とてもじゃないが助かる気はしない。
(どうしてこんな目にばっかり…!)
男たちの目的は何か、痛いのはどこか。
考えが一つずつ消えていく頭に、残ったのはカイナルへの謝罪だ。
言い付けを破ってしまったせいで。
あんなに守ってくれたのに、不注意で窮地を招いてしまった私を。
(カイナル様…)
許してくれるだろうか。
許して欲しいと願うことは、贅沢だろうか。
布が破られる無残な音から心を閉ざして、もはや脳裏に現れてもくれない男の顔を朧気に描いていたとき。
「騎士団だ! 全員大人しくしろ!」
怒声めいた大声と共に片っ端から男たちが弾き飛び、瞬時に世界が明るくなった。
(きしだん…?)
新しくなだれ込んだ一団の誰かが、咳き込むシュリアを丁寧に抱き起こす。
(騎士団が、来てくれたの…?)
「お嬢さん、我々騎士団が来たからにはもう大丈夫ですよ」
台詞こそ妙に芝居がかっているが、着衣が乱れたシュリアを上着で包み込み、背中を支える仕草に安堵する。
それに、耳にした声音は覚えがあった。
「首が痣になっていますね。他にお怪我はありませんか? お嬢さんの美しい肌に無粋な痕跡が残らないよう、早く手当てしなければ! 薬草には覚えがありますからご安心ください」
(…ちょっと)
そうは言っても、台詞の恥ずかしさに身じろいだ。
薬草に覚えがあるなんて、どの口が言う。
ぼさぼさになった髪の毛が邪魔をして、誰だか分かっていないのだろう。同様に、シュリアからも向こうが見えない。
(見えなくて、良かった)
助けてもらって言うことではないが、感謝の気持ちが瞬殺されるほどの恥ずかしさだ。
(どんな顔して言ってるのよ…)
三番目の兄が、こんな人だったとは。
「ライザフ兄さん、私、大丈夫だから」
視線を泳がせながら告げた声は、弱々しく掠れてしまった。
「…は? シュリア? 何でお前が?」
ライザフは、目も口も大きく開けて、腕の中の妹を凝視する。
(何でお前がと言われても…)
いつもそんな台詞を口走っているのかと、むしろこっちが問いたい。
急に砕けた口調に、兄にも人並みの恥ずかしさがあったのかと、こんな状況でありながら僅かに感動した。
被害者の顔を見て混乱したライザフは、シュリアを抱いたままいきなり立ち上がると、犯人を縛り上げている同僚へと言い捨てる。
「そいつら始末しといて! 先に戻る!」
「は? ちょっと待てよ、ライザフ!」
「兄さん痛いって!」
そのまま、まるで荷物のように妹を担ぎ上げ、騎士団ザファル支部へと駆け込んだのである。