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 ミルデハルト伯爵邸は、王城にほど近い古式ゆかしい邸宅街に位置している。

 騎士団ザファル支部に向かうには、市街地の中心を貫く大通りに出て、真っ直ぐ南下するのが最短距離。

 普段は通らない道を頭で確認すると、気分を変えたいこともあって、深く考えず歩き出した。

 ところが。

 ザファルでも一番の繁華街は、社交シーズンの締めくくりに開かれる建国五百年祭に向け、本当にあちこちから人が集まっているのだろう。

 沿道を埋める商店には人垣ができ、何を売る店かも分からない。

 夏の昼下がりだからと楽観していたが、とんでもない人出である。

(遠回りでも、いつもの道から来るべきだったわね…)

 人の波に辟易して、安易な選択を後悔した。

(遠回りだけど、セジュール川の土手に回ろうかしら)

 このままでは窒息しかねない。

 未だ見えない騎士団の建物を探して、一心に前だけを見ていた。

 不意に、どんっと横から体当たりを食らい、数歩よろめいて、踏みとどまる。

(な、何かしら?)

 視線を彷徨わせた先に、シュリアを見つめる男がいる。

 咄嗟に謝りかけて、しかし、息を飲んだ。

 暗い眼差しと痩せた頬。

 東部地区でも滅多に見かけない貧しい身なりで、口元だけを笑みの形に吊り上げている。

 不安に襲われて周りを見回すと、少し距離を置いた路上、仲間と思しき似たような連中がシュリアを囲んでいた。

 それなのに、息苦しいほど溢れていた人影は痕跡もない。

(まさか、裏通り!)

 考えることに疲れた頭は、表通りの石畳が途切れ、砂利道に足を踏み入れたことすら気付かなかったのだ。

 街の喧騒は遠ざかり、鼓動の音が忙しなく耳をつく。

 いくら市街地でも裏通りには立ち入るなと、いつだったか、カイナルから注意されていたのに。

(どうしよう、どうしたら…)

 何はともあれ、逃げなければならない状況にあることだけは分かっていたが、四方を囲まれた上に足が震えて立ち竦んでしまった。

 その間にも、身動きがとれない獲物をいたぶるように、男たちは一歩ずつ距離を詰める。

 最初にぶつかった男が目の前に迫り、シュリアの腕に手を伸ばした。

 触れた場所から、ぞわりと悪寒が走る。

 反射的に、掴まれた腕を引き寄せ悲鳴を上げようとしても、引きつれた音は言葉にならない。

(嫌だ! 怖い!)

 明るい世界でじわじわ迫る恐怖が、体の自由を奪った。

「こんな所、歩いてちゃいけないなぁ」

 生臭い息と危うい呂律。

 視界いっぱいに、近付いた黄色い歯が映る。

「二度とお家に帰れなくなるんだよぉ」

 もう一方の手でシュリアの髪を弄びながら、狂ったように男が嗤う。

 正面に気を取られていると、背後から肩を掴まれ、振り払う間もなく世界が揺れた。

(痛っ!)

 背中に受けた衝撃を目を閉じてやり過ごし、再び見開くと、青空を塗り潰すように醜悪な顔が見下ろしている。

(何なの? これ、何なのよ!)

 衣服に手をかけられて、逃げなければという意識がようやく戻った。

「放して!」

 走る痛みに構わず、押さえつけられた手足をばたつかせる。

 もとより、力で勝てるとは思っていない。

 無我夢中で暴れた甲斐あって、一人か二人は振り払えただろうか。

 それが限界だった。

 奇跡は、滅多に起こらないから奇跡なのだ。

「うるっせえぞ!」

 伸ばされた大きな掌が首元を圧迫する。

(そんなに強く押したら…)

 指が食い込んで、空気を遮断する。

 痛いとさえ言うことができないこの状況で、どんなに抵抗しても、とてもじゃないが助かる気はしない。

(どうしてこんな目にばっかり…!)

 男たちの目的は何か、痛いのはどこか。

 考えが一つずつ消えていく頭に、残ったのはカイナルへの謝罪だ。

 言い付けを破ってしまったせいで。

 あんなに守ってくれたのに、不注意で窮地を招いてしまった私を。

(カイナル様…)

 許してくれるだろうか。

 許して欲しいと願うことは、贅沢だろうか。

 布が破られる無残な音から心を閉ざして、もはや脳裏に現れてもくれない男の顔を朧気に描いていたとき。

「騎士団だ! 全員大人しくしろ!」

 怒声めいた大声と共に片っ端から男たちが弾き飛び、瞬時に世界が明るくなった。

(きしだん…?)

 新しくなだれ込んだ一団の誰かが、咳き込むシュリアを丁寧に抱き起こす。

(騎士団が、来てくれたの…?)

「お嬢さん、我々騎士団が来たからにはもう大丈夫ですよ」

 台詞こそ妙に芝居がかっているが、着衣が乱れたシュリアを上着で包み込み、背中を支える仕草に安堵する。

 それに、耳にした声音は覚えがあった。

「首が痣になっていますね。他にお怪我はありませんか? お嬢さんの美しい肌に無粋な痕跡が残らないよう、早く手当てしなければ! 薬草には覚えがありますからご安心ください」

(…ちょっと)

 そうは言っても、台詞の恥ずかしさに身じろいだ。

 薬草に覚えがあるなんて、どの口が言う。

 ぼさぼさになった髪の毛が邪魔をして、誰だか分かっていないのだろう。同様に、シュリアからも向こうが見えない。

(見えなくて、良かった)

 助けてもらって言うことではないが、感謝の気持ちが瞬殺されるほどの恥ずかしさだ。

(どんな顔して言ってるのよ…)

 三番目の兄が、こんな人だったとは。

「ライザフ兄さん、私、大丈夫だから」

 視線を泳がせながら告げた声は、弱々しく掠れてしまった。

「…は? シュリア? 何でお前が?」

 ライザフは、目も口も大きく開けて、腕の中の妹を凝視する。

(何でお前がと言われても…)

 いつもそんな台詞を口走っているのかと、むしろこっちが問いたい。

 急に砕けた口調に、兄にも人並みの恥ずかしさがあったのかと、こんな状況でありながら僅かに感動した。

 被害者の顔を見て混乱したライザフは、シュリアを抱いたままいきなり立ち上がると、犯人を縛り上げている同僚へと言い捨てる。

「そいつら始末しといて! 先に戻る!」

「は? ちょっと待てよ、ライザフ!」

「兄さん痛いって!」

 そのまま、まるで荷物のように妹を担ぎ上げ、騎士団ザファル支部へと駆け込んだのである。

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