15
気が静まらないまま午後を迎えた。
広々とした応接室には、長い歴史を物語る飴色の調度品と、舶来品やら古美術品やらが喧嘩しない程度に飾られている。
模様替えの采配は女主人の腕の見せ所。
しかし、連日の暑さと社交疲れがたたった伯爵夫人は、今回ばかりは古参の侍女に任せて休養中である。
シュリアはと言うと、慣れた様子で検討する侍女の後ろ、手持ち無沙汰に佇んでいた。
(私、何で呼ばれたのかしら)
社交シーズンの後半戦に向けた模様替えに、シュリアの出番などどこにもない。そもそも出せる意見がなければ、尋ねられることもなかった。
呼ばれた理由に悩む前に、できる事を探そう。
気持ちは、そう思っていたのだが。
(絵の色が変わるなんておかしいでしょ…)
ついつい考えてしまうのは、四代目当主の瞳の色。
特殊な絵の具か、特殊な紙か。はたまた温度が関係しているのかも…と際限がなく、しかし答えもなく、堂々巡りを繰り返している。
さらに、緊張続きの日々に蓄積した疲労もあって、頭の中には霧がかかり、意識は朦朧として、飾り台の位置について話す侍女の声も随分遠い。
乾いた布巾を握って立ち尽くすシュリアを、一人の侍女が呼んだ。
「その飾り台を動かしますから、上の花瓶を持っていてくださる?」
力仕事を任された男性使用人が、返事をしないシュリアを訝しげに見た。視線の主が馬番のドービスだと気付いたところで、指示を聞き逃した自分にも気付く。
「は、はい! 花瓶ですね!」
失態を取り繕うように、大慌てで花瓶に手を伸ばす。
大陸渡来の白磁の花瓶は、シュリアでも持てる小振りなもの。
手元の布巾に気付いた侍女が声を上げるのと、何も考えず花瓶を持ち上げたのは同時だった。
何事かと声の方を向いたとき、すっぽりと、添えた両手から花瓶が抜け落ちた。
「危ない!」
ドービスの声と、絨毯敷きの床から鈍い音がして、直後に右足の先に痛みが走る。
その痛みがシュリアを現実に呼び戻した。
「何をしているのですか!」
いち早く駆け寄ったサリエル夫人が、叱責と共に花瓶を拾った。
その手に抱かれた、足先を打った物体に。
(高価な花瓶が!)
「申し訳ありません!」
がばっと、音がしそうな勢いで上半身を折った。加減をしなかったせいか血の気が引いたせいか、足元もふらふらと覚束ない。
「布巾を手にしたままなど! 何を考えていたのですか!」
もっともな叱責に唇を噛む。
「それでは話ができません。顔を上げなさい」
有無を言わさぬ命令に緩慢に従うと、背筋が曲がっていると再び怒られる。
「花瓶は割れも欠けも見当たりませんから、幸いにも大事ないでしょう」
その一言に、詰めていた息を吐き出した。もしも弁償となれば、一家の存亡にかかわる大事である。
「あなたはなぜ、今、この部屋にいるか分かっていますか。ここ最近、随分と上の空でしたね。色々あったことは存じていますが、それにしても見るに耐えない有様でした」
だから、サリエル夫人の目が届く場所で様子を見られていたのだ。
「勤めが始まって一か月半、慣れから来る気の緩みはありませんか。もしもこの花瓶が損なわれていたり、あなたや他の誰かが怪我をしていたら償えるのですか」
応接室に、ぴんと張り詰めた声が反響する。
怠慢を指摘される言葉に心当たりがありすぎて、体の芯が震えるように萎縮した。
シュリアの言い分を待って言葉を止めたサリエル夫人は、引き結ばれた口が開かないと分かるや溜息をつき。
「気の緩みと言いましたが、もちろん疲れもあるでしょう。今日はもう下がって、明日から再び励むように。よろしいですね」
決して目を合わさないシュリアに言い渡す。
誰の顔も見られず、退室の挨拶だけ絞り出したシュリアは、逃げるように応接室を後にしたのだった。
しかし、まだ昼と言っても差し支えない時間帯。
いつもならば裏門の脇で待つカイナルも、さすがにこの時間は別の任務に当たっている。
(騎士団に寄って、言付けを頼めばいいわ)
ここから離れたい一心のシュリアは、足早にミルデハルト伯爵邸を出た。