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あの夜会から一か月が過ぎた。
夏と共に社交シーズンも今が盛り。遅くまで夜会に参加していたミルデハルト伯爵夫妻は、連日の疲れも相俟って夢の中だ。
メイド仲間と手分けして窓拭きに精を出すシュリアは、一階北側の廊下に差しかかった。
肖像画の保護と引き換えに明るさを手放した廊下は、午前中だというのに薄暗く、好んで長居したい場所ではない。
それに、たくさんの目に一挙手一投足を監視されているようで、非常に居心地が悪かった。
(カイナル様の冗談も、あながち冗談じゃないのかも…)
ずらりと並ぶ動かぬ当主から、あり得ない息吹が聞こえてきそうだ。
「夜じゃないから大丈夫、大丈夫」
それなりに緊張し続けたこの一か月は、拍子抜けするほど平穏に過ぎ、命の危険を感じた出来事すら記憶から薄れつつあった。
今や、肖像画に覚える気味悪さの方が、あの夜の恐怖を凌駕する。
「大丈夫だもの! はい、次!」
雑巾を固く握りしめ、何人かのご当主様の前を通過する。
しかし、四代目当主は別だ。
足を止めて、絵姿にも穏やかな若き伯爵を見上げた。
年の頃はルミエフと同じくらい。他の肖像画に比べると格段に若く、表情も柔らかい。絵画の良し悪しは知らないが、この絵だけは美しいと思えるから不思議だ。
シュリアは、物言わぬ青い瞳に興味を引かれていた。
(どんなお気持ちでいらしたのかしら)
画家の前で、終わりを見つめる彼は。
(最後まで誇り高くいらしたのでしょうね)
ライザフとリーリア、存在感が強く話題に事欠かない二人の下で影のように育ったシュリアである。両親は二人に振り回され、長兄と次兄は自分のことに忙しく、大人しい末っ子を構う暇など誰にもなかった。
おかげで子供らしからぬ人生観と処世術を身に付けたが。
決して、寂しさを感じなかった訳ではない。
持って生まれたもの、置かれた環境。全て飲み込んで、それでも青色を残した四代目当主に惹かれるのも無理はない。
同情ともつかぬ親近感を抱きながら彼の象徴たる瞳を見ようとして、唐突に、探す色が見当たらないことに気付いた。
(め、目が…)
黒いのだ。
左右を埋める肖像画と同じく、シュリアを見下ろすのは黒い双眸。
(え? どうして?)
光の加減か角度の問題か。その場でしゃがんだり、前後左右に動いたり、思いつく限りの体勢を試してみる。
しかし、シュリアを見下ろす四代目当主は。
(やっぱり、黒い)
その途端、心臓が急激に動き始めた。
食い入るように見つめても、どんなに時間が経ったところで色は変わらない。
(それ、月のない夜じゃなかったの!)
呆然としていると、シュリアを探しに来たサリエル夫人が、尋常ならざる様子に眉をひそめた。
「どうしたのです?」
はっと振り返り、駆け寄って、サリエル夫人のお仕着せの袖を強く握りしめる。
「大変です! 目が、ご当主様の目が黒いんです!」
ミルデハルト伯爵家は黒目黒髪の血筋。見当を付けたサリエル夫人は問題の肖像画を見上げた。
「まあ、本当ですね」
「本当ですね、じゃありません!」
怪談でなければ犯罪に違いないというもっともな主張を受けても、顔色一つ変えず落ち着くよう言い聞かせる。
「わたくしが幼い頃、この方の瞳は黒かったのです。それが、ある朝突然に色が変わっていたそうです」
淡々と、何事もないように語られる内容に。
(怪談の方だった!)
今やもう、サリエル夫人を掴んでいるのか支えられているのか分からない。
「この方の瞳の色が変わるのは、珍しい話ではありません。前回も相当長く黒いままだったそうです。ですからあなたも、取り乱す必要はありません」
(そういう問題なの!)
混乱の収まらないシュリアに構わず、そんなことよりと話題が変わる。
「午後から応接室の飾りを入れ替えますから、あなたも手伝ってください」
言い置いて、用は済んだと踵を返すサリエル夫人を。
「待ってください!」
一人で残されたくないあまり、普段の落ち着きも礼儀作法も放り投げて、かき集めた荷物を抱えて駆け出した。
まだ拭いていない窓の存在は、とっくに頭から消えていた。