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一夜明けて。
シュリアは今、ザックハルト子爵家の応接室にて物言わぬ彫像になりきっていた。
目の前では、貴族と思しき人物が延々と同じ話を繰り返している。
集められたのは、微笑みを絶やさないミルデハルト伯爵と虚空を睨み続けるルミエフ。そして、シュリアを案内して座らせた後、その背後から動かないカイナル=ザックハルトである。
涼を取るため開かれた窓の向こうは、太陽の光がことさらに眩しい夏日。それなのに、この部屋の空気は淀む一方だ。
場を仕切る人物は、だぶついた灰色の上下に同色のクラバット姿という、何とも趣味を疑う出で立ちをしている。その反面、良くも悪くも喋りは力強く自信が溢れ出しており、それなりの地位にあることは想像できた。
しかしシュリアは、この貴族がどこの誰かを知らない。
入室するなり昨夜の顛末を求められ、用が済むと追い出されそうになり、ミルデハルト伯爵のやんわりした抗議で座り直したのである。
(これが、普通の俺様貴族よね)
心中を慮って勤めを辞めるよう勧めたミルデハルト伯爵に対し、件の俺様貴族は。
「犯人は必ず再び現れます。その時、この娘は一人でいる方が危険ですよ。今のまま屋敷に出入りさせて、目の届くところに置いた方がよほど親切でしょう」
と、長い前髪をかき上げながら、さも分かったかのように言ったのだ。
その後も、喋るだけ喋って聴衆を辟易させると、ようやく満足した様子で腰を上げた。
「発見次第こちらでお預かりしますので、伯爵は早急に「歴の書」を探し出してください。それから、犯人からの接触があれば、可及的速やかに知らせてくれたまえ」
最後のくだりは騎士団に対する指示と思われるが、その視線がルミエフを捉えることも、ルミエフの返事もなかった。
そして、くれぐれも他言なきようと残して退室したのである。
扉が閉まる音に重なって、誰かの盛大な舌打ちが聞こえた。
「彼は変わらんね。カイナル、新しいお茶を頼めるか。私はもう、干からびてしまいそうだ」
(…私なんて、干からびちゃったわよ)
肩を竦める姿に、室内の全員が同意した。
ザックハルト子爵家の侍女が丁寧に淹れてくれた高級紅茶も、この顔触れに放り込まれたシュリアには堪能している余裕などない。
「シュリア、改めて昨日の件を謝罪しよう。君が抜けた本当の理由は伏せているが、使用人には上手く言ってあるから気にしないでくれ。それから、檸檬だったかな? あれも大事にはならなかったそうだ。君さえ良ければいつでも戻って貰えるのだが…」
朝一番でカイナルが実家から持ち出してくれた私服姿のシュリアに、どこかの俺様貴族とは異なる真摯な声で、ミルデハルト伯爵は意向を問うた。
ちなみに、昨日着ていたお仕着せは、ザックハルト子爵家の好意で洗濯に回されている。
そう、昨日。
出迎えた執事らを前に「大事な客人」と紹介されたせいで、身の置き場に困るお客様扱いをされてしまったのである。
濡らした布で体を拭こうとすれば、人生初の熱い風呂に放り込まれ。
傷の手当てに薬草を頼めば、それらしい薬草を山盛り持参した執事に知識を絶賛され。
長椅子で丸くなろうとすれば、真っ白な敷布も眩しい広い寝台に連行され。
借りた寝衣だって、汗や皺を付けるのが申し訳ないような一級品。
本当に、どこを取っても摩訶不思議な体験である。
しかし、一連の騒動に流れに流されたシュリアだったが、勤めを辞めたいとは一度も思わなかった。
「お許しくださるなら、お勤めを続けさせてください」
「そう言ってくれるか! では、明日からまた、元気に頼むよ」
ちらっと視線を流したミルデハルト伯爵に、表情の変わらぬルミエフが小さく頷いた。
「一生懸命勤めますので、よろしくお願いします」
立ち上がって頭を下げるシュリアを優しく見守ると、改めてルミエフに向き直る。
「そういうことだから、どうするかね?」
警備の問題である。
あれだけ喋っていた俺様貴族は、具体的な方策には一切触れず、勤め続けるシュリアの安全を当然のように無視していた。
腕を組んでしばらく考えていたルミエフが、念押しのように尋ねる。
「シュリア、犯人は見えたのか」
「いいえ。明かりもないし、襲われたのも後ろからで何も見えませんでした」
冷静に思い起こしても、月のない夜で見通し悪く、屋敷の明かりすら届かない一角では相手の顔を確認できる状況になかった。
なかったのだが。
(でも、カイナル様の姿が見えたのはどうしてかしら)
彼が誰何の声を上げた時点で、随分距離もあったのに、その姿が見えたのだ。
不思議に思ったところで、答えを出したルミエフに呼び戻される。
「ならば、庭師のエドルフの出勤時間を合わせて貰えますか。朝は兄に頼みましょう」
(エドルフ兄さんを?)
思わず副隊長を凝視した。
(それって、むしろ大丈夫なの?)
長兄は、荒事なんてからっきしだ。
「分かった。それで、帰りは?」
「帰りは騎士団の方で持ちましょう」
ルミエフが即答すると、被せるように背後から声が上がった。
「副隊長、その任務は私に指示願えませんか」
長らく聞いていなかったカイナルの声に、シュリアの頭上へと視線が集まる。
「私ならば本件の当事者でもありますし、屋敷に出入りして不自然はありません」
(なるほど…)
他の騎士に任せるなら何らかの説明が必要となる。伯爵家への出入りを考えると貴族出身の騎士が望ましい。
素人にも分かりやすい申し出に、ルミエフも納得したようだった。
「そうだな、お前に任せよう。シュリアを頼む」
「はい。全力を賭してお守りします」
決意表明を、ミルデハルト伯爵は興味深そうに、シュリアは他人事のように傍観していたが。
(カイナル様が送ってくださる? 誰を?)
兄は、シュリアを頼むと言わなかったか。
遅ればせながら血の気が引いた。