10
ぴたりと止まった話し声、転がる檸檬、奇妙な沈黙。
一瞬の後、籠を抱え込むようにしてシュリアは走り出した。ほぼ同時に、派手な音を立てて倉庫が開き、土を蹴る靴音と誰かの息遣いが飛び出した。
気配は、あっという間に背後に迫る。
(捕まる!)
体力がないシュリアが到底勝てるはずもなく、大して進まないうちに腕を掴まれ、取り押さえられて、後ろから羽交い締めにされた。
「誰か!」
相手は男だ。
分厚く硬い掌がシュリアの口元を覆う。
そして、浅い息を繰り返すシュリアを、扉が開いたままの備蓄庫へ引きずり込もうとしている。
体に回る腕の太さや食い込む力の強さが、圧倒的な体格差を知らしめた。背中に密着した男の熱が恐怖を煽る。
(いや! 助けて!)
逃げようと無茶苦茶に動かした足は、地面を踏むことすらない。
(殺される!)
最悪の想像に目を開けていられず、お守りのように抱き込んでいた籠も手から離れた。
まだ中身が残っていた籠は、地面に直撃して重い音を立てる。
備蓄庫の闇に体の半分が飲まれ、抵抗する力も尽きたとき。
「そこで何をしている!」
鋭い声が夜陰を裂いた。
衝撃が、稲妻のように一帯を走る。
咄嗟に目を凝らすと、屋敷の陰から飛び出した誰かが。
(カイナル様!)
こんな暗闇で嘘のように、カイナル=ザックハルトの姿がはっきり見えた。
突然の奇跡に驚いたのはシュリアだけではない。
不利を悟ってシュリアを投げ捨てた男は、下草を踏み散らして逃げ出した。
「大丈夫ですか! お怪我は!」
入れ違いで傍に滑り込んだカイナルは、土にまみれた頭を支えながら慎重に抱き起こす。
そこで初めて、助けた相手の正体に気付いたようだった。
「まさか、シュリアさん!」
胸に頭を預け、驚愕の色が広がる顔を言葉もなく見上げる。
(助かった…?)
痛みを感じるのは、叩きつけられた右肩と地面ですれた頬だろうか。
「大丈夫です、もう大丈夫ですよ」
焦点が定まらないシュリアを腕に抱いて。
騎士団の一員でありながら、あまりの偶然に、カイナルの動揺は収まらない。
警備に異変を知らせることも逃げた男を追うこともなく、シュリアの涙が止まるまで単純な一言を繰り返した。
やがて、どれほど時間が経っただろうか。
上着に顔をすり寄せていたシュリアが、緩慢に視線を上げて、ようやく口を開いた。
「お洋服が違いますね…」
散々涙を擦り付けた上着が、騎士団の制服とは異なる上等な生地で、繊細な刺繍も入っていて。
もしかして、今夜は。
「服? ああ、はい、夜会に出ていたので」
(やっぱり!)
思ったとおりの答えは、シュリアから恐怖の余韻を吹き飛ばした。
「申し訳ありません! お客様に何てことを!」
勢いよく跳ね起きようとするが、カイナルの威圧感が許さない。
「そんな事を言っている場合ではありません。外傷は頬だけのようですが、他に痛むところはありますか?」
「あちこち打ちましたけど、体は頑丈ですから」
「シュリアさん、無理をしなくていい」
カイナルは、立てた片膝にシュリアをもたれさせ、両腕に閉じ込めたまま、男が消えた方角を睨んだ。
「お聞きしても大丈夫ですか?」
「はい。でも、私、立てますので…」
「いいえ、このままで結構です。ここで何があったのですか、先ほどの男は?」
促され、記憶を戻そうとして、消えたはずの恐怖が蘇る。すると、背中に回る大きな掌が励ますように上下した。
「私は、食品庫に檸檬を取りに来…って!」
(そうだわ、檸檬水!)
重大な任務を忘れていた。
「檸檬、檸檬が!」
慌てるシュリアと対照的に、散らばる檸檬をちらっと見たカイナルは続きを促した。
「それで、食品庫に来て、どうされたのですか?」
「あ…はい、食品庫を出たら、隣の備蓄庫から声が聞こえて」
「何を話していたか分かりますか?」
「そこまでは…」
「声は一つでしたか?」
「聞こえたのは男の人の声だけです。でも、話し相手がいる雰囲気でした」
「知っている声でしたか?」
「いいえ。多分、知らない声だと思います。だから食品庫に隠れようとして、檸檬が落ちてしまって…」
そこで再び、任務懈怠の文字が頭に浮かぶ。
(これで解雇なんてされないわよね…)
続く言葉をカイナルが拾った。
「檸檬の音で気付かれて、捕まってしまったというところでしょうか? 恐ろしい体験の直後に思い出させてすみません」
「いえ、それより…」
「備蓄庫から出てきたのは、先ほどの男だけでしたか? 話し相手と思しき人物は?」
問われて記憶を探してみるが、シュリアもそれどころではなかったので、例の男以外の人物については答えようがなかった。
無言で首を振ると、質問を打ち切ったカイナルはゆっくりと立ち上がった。
「シュリアさん、今日はもう帰りましょう。傷の手当てもしなければ」
(傷の手当てより檸檬よ!)
止まらない冷や汗も、この後の段取りを考えているカイナルには切り出せない。
薬草を塗り込んで何とかなる程度の傷より、頭を下げても解決できない問題の方が遥かに気がかりである。
「あの、頬の傷は自分で何とかしますから、どうぞ夜会に…」
「もう夜会どころではありません。さあ行きましょう」
そう言って着せかけられた上着は、温もりと共にシュリアの膝までを覆った。
「暗い道を通りますので、足元に気を付けてください」
隣に並び、肩を抱いて、壊れ物を扱うように一歩を踏み出す。
「あなたは今、誰とも分からぬ輩に襲われたのです。私は、恥ずかしながら犯人を取り逃がしてしまった。これがどういうことか、分かりますか?」
心中を読んだかのように、カイナルが諭す。
「まずい話を聞かれてしまった、とあなたは思われている。しかも犯人は分からない。招待客かもしれないし、屋敷の関係者かもしれない。それなのに、あなたを仕事に戻せると思いますか」
物の分からぬ幼子に言い聞かせるようだった。それが、事の深刻さをシュリアに伝えた。
いつ襲われるか分からないのだと。
「この件は、私から伯爵に伝えて然るべき手立てを講じます。あなたにも改めてお話を聞くようになるでしょう。ですから、今日は帰って休みましょう」
素直に頷くと、心持ち表情を崩したカイナルがシュリアの肩を軽く叩く。
「伯爵には、シュリアさんが現場を抜けたことも上手く誤魔化してもらいますよ」
兄へ迷惑がかからないように。シュリアの体面も保てるように。
犯人を取り逃がしたと非のない自分を悪く言うカイナルに、シュリアは、礼すら言っていない非礼にようやく気付いた。
「助けてくださってありがとうございました。本当に、嬉しかったです」
あのときカイナルが現れなければ、きっともう、生きていない。
「もっと早く夜会を抜け出していれば、こんな傷を付けることもなかったと悔やみます」
そうして、闇に紛れてザックハルト子爵家の馬車に乗せられ、揺られること僅か数分。
初体験の馬車に緊張する間もなく、規則的な振動が止まり、扉が開けられた。
手を取られて降り立ち、夜目にも分かる優美な蔦模様が彫られた正面玄関の前で息を飲む。
連れてこられたのは、ザックハルト子爵家だった。