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ここは、ライナルシア王国。
百年戦争に終止符を打った救世主の末裔が、強大な魔力で統べる小さな島国。
その王都ザファルは、北の丘に白亜の王城、南の裾に煌めく海岸線を擁し、建国以来五百年もの歴史を紡ぐ全能の都である。
ライナルシア王城のお膝元、貴族の屋敷や商店が競うように建ち並ぶ市街地を抜けると、街の東寄りを流れるセジュール川を境に東部地区と呼ばれる平民街が広がっている。
その一角に佇む、とある教会。
四隅が朽ちた正面扉から姿を現した彼女は、名を、シュリアという。
(うわ、思った以上に暑い…)
今は昼時。
濃い茶色の髪が一瞬で焼かれそうな日差しを浴びて、家へ向かう足を急がせた。
シュリアの家は、東部地区の中心でパン屋を営んでいる。教会から歩いて数分の所だ。しかし、たかが数分と言うことなかれ。二十歳を過ぎて早数年、シミ一つが命取りになるお年頃である。
両親の店の前を過ぎ、建物の裏手にある家族用の玄関に辿り着くと、こめかみに浮かんだ汗を拭った。喉元に張り付いた中途半端な長さの髪も手櫛で念入りに整えて。
(間に合ったかしら?)
帰省するので家にいて欲しいと、連絡をくれた兄を思う。
基礎学校を卒業後、平民枠で騎士学校に入った二番目の兄ルミエフは、第三騎士団第一隊の副隊長を任されるという大出世を成し遂げ、この界隈ではちょっとした有名人となった。
そのルミエフが、地方勤務が明けて王都に戻ったのはつい先頃。同じ王都に住んでいても宿舎暮らしの騎士と会える機会は滅多にない。
厨房兼食堂兼居間の扉を叩くと、くぐもった声で応えが返った。
何年振りかのルミエフの声に、自然と口元がほころんで。
「お帰りなさい、兄さ…」
「おお、帰ってきたな! 遅いぞシュリア!」
僅かな隙間から降ってきた陽気な声に耳を押さえ、太陽のような笑顔に再び口元を引き結んだ。
「…ライザフ兄さんも、お元気そうで」
三番目の兄、ライザフである。
(…この人まで帰って来なくても)
子供の頃から悪童の名を欲しいままに成長した彼は、素行の悪さに辟易したルミエフによって強制的に騎士学校を受験させられ、奇跡の合格を果たした後、ルミエフと同じ第三騎士団に配属された。
騎士団の懐の広さに感服したのは、シュリアだけではなかったはずだ。
入口近くには、見た目も中身もライザフとそっくりの姉、リーリアまで揃っている。
薄い栗色の巻き毛を片側でゆるく結び、上を向いた長い睫毛をしばたいて、ぷっくりした瑞々しい唇が柔らかい弧を描く。悲しいかなシュリアと血縁を感じさせないこの美女は、両親のパン屋を継ぐために毎日店頭に立ち、パン作りを任せられる婿探しに心血を注いでいる。だから、こんな時間に店を外すことはない。
看板娘の同席を訝しく思いながら視線の先を辿ると。
ライザフに感動の再会を遮られてしまったが、会いたかった自慢の兄と目があって今度こそシュリアは微笑んだ。
しかし、ルミエフの隣に座る何かが視界に入った途端、甘い微笑も凍りつく。
何かというより、誰かが正しいのだけれど。
(ちょっと…どうしようかしら…)
かける言葉すら、選択に迷う。
お手本のように隙なく着込んだ騎士団の制服、ルミエフにも劣らぬ美しい姿勢、醸し出す雰囲気から推測される整ったご面相…があるべき位置に。
今や幻とも噂される騎士団の特徴的な制帽が、でんっと鎮座していた。