第6話
柔で焦がすような情感に身を委ねていると、平坦よりやや高めな音色が室内に響いた。
自身の内に芽生えた情に浸ろうとする己を止め、玄関口へと急ぐ。涙の伝っていた線を拭
うと、瞼をグッと一度閉じてから玄関扉をそっと開いた。扉の向こうに立っていたのは、
顔の恐い50代前半の男といかつい体格をした30代後半の男だった。2人ともスーツの
上にコートを羽織り、左手には傘を持っていた。初見のおっかなそうな男2人を前に、私
は一つ息をのんだ。保険の勧誘やら回覧板の巡回といった雰囲気は寸無であり、私とその
男2人の空隙にはなにか物難しい空気さえ漂っていた。
「すいません、警察の者です」
顔の恐い男が言った。
警察?
警察が一体、私なんかに何の用なんだ?
警察の人間なんて、交番の前で道案内してる警官や、強化週間にパトロールに勤しむ警
官を目にするぐらいで、こんなふうに面と向かって会話をすることなんかなく、心持ちか
しこまった。もちろん、私は彼らにお縄になるようなことなんか記憶にない。私がとてつ
もない夢遊病で、睡眠中にこの部屋を抜け出し、民家の庭木を何本と折ったり、店ののぼ
りを力ずくで折ったりでもしていないかぎり。
「一昨日の事件はご存知でしょうか?」
顔の恐い男の言葉に私が顔をしかめると、いかつい男の方が「殺人事件が起きたんです
けど」と言い加えた。私はいかつい男の足した言葉で文意を理解した。昨日テレビで流れ
ていた殺人事件のニュースのことを言ってるんだな、と。
知ってます、と私は言った。
「では、この男のことを知りませんか?」
顔の恐い男がコートの内ポケットから1枚の写真を出した。その写真は、私の身体を一
瞬にして硬直させた。顔がこわばったり、身が締め付けられるでもなく、魂をすっと抜か
れたように。どこかの映画で見たことのある、魔女への裏切りで氷柱にさせられてしまっ
た兵士のような感覚だった。足の先から頭の先まで、下から上へと瞬時に私の身体は氷化
された。
他の何者でもなく、その写真に写っていたのは今リビングにいる彼の姿だった。学生服
を着て、髪も短めであったが、それが彼であることはすぐに分かった。来客用の私の衣類、
無作法で不躾な荒々しい髪型、今の彼と比べれば いやに若々しい印象に見える。写真に写
る彼は少し笑みを浮かべていた、何か楽しいことがあったのか、一緒にいると楽しくなれ
る人といたのか。それは私がこの2日間で目にすることのなかった、彼の明の部分だった。
固まった顔をぎこちなく上げると、私は目の前のコート2人に難しい質問をした。
「・・・この人・・・誰ですか?・・・」
質問自体に難度は伴っていない、それに対する返答を受け取る私自身の心持ちの構え方
が難しかった。警察が何故に彼の写真を内ポケットに忍ばせていたのか。どんな仮説をた
てようとも、この後の展開が良化される図式を描き出すことは不可能だった。頭内に描く
キャンバスはどれも紺に染まり、明色がそこに足されることは禁止されてるように遮られ
た。
そんな私の心情など知る由もなく、顔の恐い男が開口した。
「殺された夫婦のご子息です、一昨日から行方不明になってましてね」
心臓が大きくドクンッと鳴った、全身から溢れてきそうな動揺をなんとか押し殺す。涙
が出そうだ、息を不規則に呑みそうだ、さぶいぼが両腕に並びそうだ、右足が揺れ動きそ
うだ。身体中に力を入れて、それらが起こらないように努めた。
「それで今探しているんです、なにかご存知ないですか?」
いかつい男からの疑問詞に、私は反射的に首を振った。私は嘘をついている、私は写真
に写ってる人物を知っている。今、私の後ろに7mも進めば その人物はいる。
「そうですか、ではまだ犯人が逃走中なので十分に気をつけてください」
はい、と力のない声を発した。私の声量が微かに減っていってることなど気付くことも
なく、顔の恐い男といかつい男は私の前から去って、左隣の家のインターホンを押した。
私にしたように、隣部屋の20代半ばのOLにも写真を見せて質問をしていた。
玄関扉を閉めると、その場にペタンと座り込んだ。涙が出てきた、息を不規則に呑んだ、
さぶいぼが両腕に並んだ、右足は揺れなかった。これまでに経験のない緊張感で張られて
いた線が切れてしまったようだ。
そこで俯いたまま泣いてると、人の気配を感じた。その人を見上げた、彼がしゃがんで
私を見ていた。言を発することをせず、私の泣き顔をただ見ていた。しゃっくりにも似た
息遣いをしていた私を淋しそうな瞳で見ていた。
「・・・だから?・・・」
「・・・だから、あなたはそんな瞳をしてるの?・・・」
両親を何者かに殺害されて、失意の底におとしめられて。彼のことが一つ分かった、た
だそれはあまりにもの吃驚を伴った。そこに嬉しさなんかない、哀切の限りを味わうだけ
でしかなかった。私が彼だったら、そんな場面を目にしたら狂ってしまうだろう。ジェッ
トコースターみたいに急速的にぐるんぐるん頭の中を切事が駆け回り、この世の果てに行
き着いたように感情を必要としない身体が備わる。もうこの先に夢なんかない、ないから
見ない、そんな私になる。それは正に目の前にいる彼そのものだった、彼の身体の中味は
空っぽのようだった。彼の髪も、顔も、身体も、皮膚も、爪も、全部が上っ面のものでし
かなく、そこにいる彼自身には何もないようにしか思えなかった。
彼はしゃがんだまま、体制を変えることもなく私をずっと見ていてくれた。私も、私を
見てくれている彼をずっと見ていた。彼は淋しそうな瞳で私を見ていた、私も同じ瞳で彼
を見ていた。彼の心内に手を伸ばすと、自然とその瞳になっていた。でも、私の瞳の中に
ある切なさなんて断片的でしかない、彼のはもっともっと深かった。会話もなく、触れ合
いもない、それでも何かがどこかで繋がってる気がした。




