第5話
目を覚ますと、既に時計の針は正午をさそうとしていた。土曜日と日曜日はアラームを
かけることなく、自分で目を覚ますまで眠るのが習慣だった。その2日間は深い眠りにつ
くことができる、そこで見る夢も深いものになる。
私はよく海の夢を見る、正確には私が海の中にいる夢だ。私は海中で当然のように息を
して、当然のように息をはく。まるで地上でスーハーいうように、海の中でそれを繰り返
す。私は海中を泳がない、二足歩行で歩を進ませる。まるで地上をタントコ歩くように、
海の中でそれを繰り返す。いつも着用してる衣類を身につけて、お腹が空いたらバッグに
潜ませていた洋菓子でも頬張る。酸素ボンベなんて必要ともしないし、うとうとしてきた
ら その場で眠りにつく。全ては私が毎日の中で行っている事柄であり、それらは必然的に
海中で行われる。随分と都合のいい設定だと思うだろうが、えてして夢なんてそんなもの
だ。現実世界以上の幸福感に彩られることもあるし、うなされるような悪夢に見舞われる
こともある。私はたまたま前者が多いだけで、そこにはほぼ必ず水深の世界が広がってい
るのだ。
この夢空間は私が小さいころから存在した。深い眠りにつけば、竜宮城に迎えられるよ
うに水の空間に迎え入れられる。その度に、私は歩いたり、たまに走ったり、食べたり、
休んだり、ごく穏当で日常的な行為にいたった。
自分の前世について考えたこともある、私は私として生を受ける前に海洋生物として生
きてたのでは、と。烏賊だったり、海豚だったり、磯巾着だったり。でも、せっかくなら
鯛がいい。そんなこと想像したところで、現世の自分が前世を変更することなどできない
のだが。私が現世でこれほど海に執着した夢を毎度見るのは、前世が何かしら絡んでるは
ずだ、と思案した。前世で私はきっと海洋生物として未練を残したまま生命を落としたた
め、来世である自分が生を受けた後にもこうしてその画を映し続けてるのだろう、と。そ
う思うのはいつからか止めにした、いつからかははっきり憶えてはない。あれこれ思い考
えたところで、現世の私の送る日々に変化はない。雨の降る日に雨は降るし、深い眠りに
つく日には水の中にいる夢を見る。それに変わりはない、だから答えのない疑問に思考を
巡らすのは止めた。今はこの水の夢を見ることに何ら関心を持たない。ちょっと楽しい感
覚を覚えるくらいだった、水の好きな私が水の夢を見たという程度の。その奥深くにある
部分に手をかけることはしなくなった。
ただ、今日に限っては例外というものが生じた。瞼を開いてから、暫くは真っ白な天井
を視界にいれたまま考え事をした。水深にいる私、それよりもさらに深いところにいた彼
のことだ。頭をまっさらにしてみると、一昨日から降りかかっていた一つ一つの事由が濁
った。打ちつける雨の中で駅前に座り込む彼、初見の男性を自宅まで運んで看護した私、
疑念を抱きもしないように同じ部屋で過ごしている彼と私、それぞれが不透明で濁ってい
た。彼のことを何も知らない私、私のことを何も知ろうとしない彼、濁ってる。彼のこと
が知りたい、その思いが私の身体を蝕むように広がった。彼の口から直接聞きたい、私の
中の濁った水を浄化させてほしい。
リビングへ行くと、彼は窓の外に映る雨景色に目の線を遣っていた。昨日の午後に一旦
その姿を消した雨雲の後を追うように次の雨雲が訪れていた。先頭で勇ましく通り過ぎた
大将の後に連なる家来たちの群れのように、長ったらしい雨雲だった。速度も遅く、真ん
丸なグレイをグッと握りつぶしたように細長くなったグレイが空に浮かんでた。私は空合
いを眺める彼の左隣に座った。なぜだか心の音がした、それはいやに速かった。毎日腰掛
けてるソファに座っただけなのに、私は胸が高鳴った。彼は私のことはお構いなしに、グ
レイからグレイに移ろう雨空を見ていた。私は愁いを宿した彼の姿を焦点に定め、彼の細
めた瞳で見ている雨景色をその奥に映していた。彼の瞳は本当に淋しそうだった、その淋
しさは彼の身体ごと纏って 彼の姿を完成させていた。その奥にある切事を見遣ろうとする
と、また私の右の瞳から涙が流れた。そこに手をかけようとすると、左の瞳からも涙が流
れた。
なんで、そんな哀しそうな瞳をするの。この世に映る全てのものは悪を宿した言霊で、
そこに正義など在りはしないような。周りに映る全ての人間は裏切る動物で、例え友人・
家族・恋人であろうと同罪であるような。それが惰性であるような、何もかもを見据えた
ように出来上がった瞳に見えた。
彼が私の方を振り向いた、私の涙を流す音が聞こえて。彼は私の顔をじっと見ていた、
雫で濡れる瞳を、雫の溜まる瞼を、雫の伝う頬を、雫を垂らす顎先を。言葉はなかった、
ないままに彼は私の泣き顔を見て、私は私の泣き顔を見る彼の顔を見ていた。2分ほどで
涙は止まり、それと同時に喉元に詰まっていた言葉がするりと口から出てきた。
「・・・ねぇ・・・」
私の呼びかけに、彼の返事はなかった。その返事の代わりになるぐらいに、彼の瞳は真
っ直ぐに私を見ていた。
「・・・どうして、あなたはそんな淋しそうな瞳をするの?・・・」
返事はなかった、彼はその淋しそうな瞳で私の瞳を見ていた。
「・・・あなたは誰なの?・・・」
「・・・あなたの身に何があったの?・・・」
「・・・教えて・・・あなたのことが知りたい・・・」
知らずのうちに両側の瞼から雫が垂れていた。修復機能の備わった装置のように、私は
再び涙を流していた。それは止めることの無理な流動だった、私の見ていた彼の瞳にはそ
れだけのものがあったから。眼前の彼は暫く口を閉ざしたままで、やがて一つの言の葉を
漏らした。
「・・・知らなくていい・・・知らないほうがいい・・・」
小鳥のさえずりのような小さな言葉だった。なのに、牡犬の遠吠えのように力をもった
言葉でもあった。それ自体は微小であるにもかかわらず、いつか放たれる閃光を潜ませて
るような、まさに彼そのものの言葉だった。その言葉に、不思議と悔しさや切なさは滲ま
なかった。それよりも1日以上ぶりに耳にした彼の言葉に心地良さを感じていた。いつか
ら、私はそこにそんな感情を感じていたのだろう。いつから、私は彼の中に自分の居場所
を感じていたのだろう。
昨日、映画「亀は意外と速く泳ぐ」をレンタルで観ました。
選択理由は、これを借りようと決めてなかったからなんとなく。
ただ面白かったので、なんとなく借りてみてよかったです。




