第4話
朝食の用意をしていると、彼が目を覚ました。フライパンにサラダ油を浸してると、後
方から視線を感じた。振り返ると、菜種色のソファの上に寝転んだままでこちらを見る彼
の寝姿があった。睨むように、細長い目で私を見ていた。
「・・・起きたんだ?・・・」
「・・・顔洗ってきたら?・・・」
彼からの返答はなかった、文間は空けてみたが彼の口は開かなかった。寝癖のついた
髪を携えて、私の導きもなく洗面所へ向かった。どうやら、昨日の一連のことは記憶にある
ようで、洗面所がどこにあるかも憶えてたようだ。その間に私は朝食をリビングのテーブ
ルに揃えた。ごはん、味噌汁、目玉焼き、サラダ、お新香、ザッツ日本人の朝食。
洗面所から戻ってきた彼はテーブルを一目した。日本の家庭の定番の食事がそこにはあ
った、私と彼の2人分。2人分の料理をこしらえるなんて滅多になく、なんだか恥ずかし
くもあった。私の部屋に一泊して愛し合った男性のために並べそろえたような感情も湧い
たから。ちょっと嬉しいような、そんな自分を卑下するような、両極な感情が心内に
浮かんでた。
「・・・ご飯、食べれる?・・・」
「・・・あぁ・・・」
呆気にとられた、随分あっさりと彼が言葉を発したことに。きっとこのまま言を発する
ことなく、私と彼との間柄は為されてくのだろうと思っていた矢先のことだったから。
「・・・喋れるのね・・・」
「・・・どういう意味だ?・・・」
別に意味なんかない、と返した。
「・・・身体の方は大丈夫なの?・・・」
彼は私を一度見遣ってから、あぁとだけ答えた。その場に腰を下ろすと、2人で食卓を
挟んだ。私が手を合わせて食につくと、それを確認したように彼も食についた。私はいつも
どうりに味噌汁から手をつける、彼はサラダから手をつけた。私は取り合えず最初に温み
を求めるのだが、彼は瑞々しさを求めるようだ。私は箸をくわえたまま、彼が私の作った
朝食を口に運ぶさまを見ていた。
「・・・何だ?・・・」
彼の瞳は睨むように私を直視していた。合っていた目線をスッと外してしまいそうにな
るくらい、真っ直ぐな線だった。
「・・・いや、味はどうかなって・・・」
彼の直視線が一度ちらっと下を見下ろし、また私の方へと向けられた。
「・・・普通・・・」
私はフッと口角を上げて微笑んだ、彼の返答を聞いて。眼前の彼は私をおかしなやつだ
と思っただろう、普通という感想に笑みを浮かべる私に。
普通、それはむしろ喜ばしいことだった。普通のメニューに、普通の作り手、普通の食
材、それが普通に作られれば味は当然に普通。普通という二文字は、褒め言葉と受け取っ
てもいいほどだ。元来、私は朝食にコーヒーとパンなんて気の利いたメニューを食するや
つが大嫌いだ。小さい頃から和食で育ったくせに、何を勘違いしたように西洋かぶれにシ
フトチェンジをする若僧ども、と。馬鹿の格好つけども、そう罵倒してやりたいくらいだ。
この身体に育て上げてくれた、このメニューを裏切ることなど冒涜以外の何物でもない。
そう、この普通こそが私にとっての最上なのだ。
朝食を摂りながら例日通りにつけていたテレビでは、夫婦惨殺事件の報道が流れていた。
ここから5キロほど離れた住宅街での事件だった。50歳代の夫婦が何者かに刃物で切り
つけられ死亡、犯人は逃走中、とのこと。テレビ画面の中にいるキャスターは昨日と同じ
く、悲しげなニュースを悲しそうに読んでいた。こんな報道を目にしたら、ここら一帯の
家庭では今頃は多種多様な話し合いがもたれてるだろう。外出の際に生じる危険性に対す
る注意、大体はそこを重点とされる。だが私には無縁な話だった、そんな事件なんて関係
ないぐらいに客観的な視点で私はいた。別に逃走犯がそこらにいようと、誰が切り刻まれ
ようと知ったことじゃない。それが私でないのなら、私と深い関係性をもった人たちでな
いのなら、私には関係ない。逃走犯が隣人であろうと、教授であろうと、政治家であろう
と、興味の欠片もない。
自分の思考がどれだけ冷めきってるかぐらい分かってる。こんな思いの凝らし方を他人
に話せば、拒絶反応すら抱かれるだろう。でも、これが間違いなく、正真正銘の私である
のだからしょうがない。私は私であって、私の考え方でもって、私として過ごしていく。
私は他人じゃないし、他人は私じゃない。私は他でもない私自身、ならば私は私の創り上
げる常識の中で生きていく、それしかない。
ふっと我に返る、目の前では彼が私の作った味噌汁をすすっていた。私が自己闘争に陥
ってる間も、テレビから流れる報道を気にする様子もなく、黙々と食していた。彼はどう
なんだろう、私と同じ思考を抱くのだろうか、他人と同じ思考を抱くのだろうか。昨日の
彼の淋しそうな瞳を思い出した。彼も私と同じような気持ちを持っているはずだ、そう願
うように心内に響かせた。あの瞳から見た景色が周囲の凡庸的な群衆たちと同じものであ
るはずがない。あなたはきっと違う、当たり前かのように私の方に来てくれるんでしょう。
私は大学で授業があるから16時頃まで留守にする旨を彼に伝え、合鍵は置いていくけ
ど基本的に外出はしないでほしいと言って出掛けた。身体の様子も気懸かりだし、何も言
わずに出て行かれたりすることを危惧した。帰ってきて彼がいなかったら、もうそのまま
二度と会うことはないような気に駆られた。何かで繋ぎ止めておかないと、遠くに行って
しまいそうで怖かった。
外は小雨が降っていた。昨日から続いた雨は夜明け前まで降り、その余韻代わりのよう
な小雨だった。傘をさしていいか微妙な疎らさ、それを開くかどうかはあなた次第とでも
言われてるような。開く、開かない、やっぱり開く、やっぱり開かない、空想シミュレー
ションがぐるぐる回る。御空さん、私を悩ませて 何を試そうとしてるの。それはあなたを
喜ばせるの、なら それはあなたの自己満足なの。あなたみたいな世界中の大地を包み、纏
い、見守るほどの存在にしては、ちまっとした趣味だよ。そう忠告したい、あなたならも
っと壮大で無限的な視野を兼ねた趣味を持てるのに。そんなこんなを考慮しつつ考える、
開く、開かない、と。
私は結局、開かない方を選択した。小雨を体に受けるなんて、愛犬に頬を舐められるよ
うなものだ。水化された この身体には喜ばしいことであり、私に限っては恵みの水だった。
私に落ちた水滴は、皮膚を通過し、体肉を通過し、私の栄養分となり、私自身となる。エ
ネルギーを貰ってるようで、身体内にみなぎる何かを感じた。
大学の友達は事前に打ち合わせたように、同じ話題をトップニュースにしていた。今朝
の報道をなぞらえて言い、ああだこうだと卑屈的なシミュレーションを投げ掛ける。夜道
を歩いてて後ろに逃走犯がいたらだとか、人ごみの集まる大通りで銃を乱射する逃走犯が
いたらだとか、そんな「起こる可能性が限りなく少ないけどある」といったような愚説だ。
そんなこと言い出したら、いついかなるときでも その可能性は限りなく少ないけどある。
逃走犯がいてもある、いなくてもある。当人たちは心配そうに話してるが、私にはそこに
コメディを感じずにはいられない。よくそんな次々と自分を灰にまぶせるような状況に落
としていくことができるね、と。
”私にとって”面白い話をしてくれた彼女たちへ、昨日から今日にかけての私に降り起こ
った非日常的な展開の話を持ちかけた。出会った瞬間に彼に心を奪われてしまったことだ
けは包み隠して。雨の日に道端に座り込む男性に恋情を持ったことが知れるのが恥ずかし
いのではなく、初見の男性に私が恋情を持ったことが知れるのが恥ずかしかったからだ。
一目で心を奪われるなんて この世にありえない、そう私は胸の芯に抱いてきた。周りにだ
って そう断言してきた。
この世に一目惚れなんて存在しない、と。
そうだ、これは一目惚れなんかじゃない。この胸の内に轟く動悸はそれじゃない、そう言
い諭してみた。でも、これを十人に聞いたら十人が返すだろう。
それが一目惚れだ、と。
そんなことって・・・。第一、相手のことを外見でしか見ていないのに、性格だとか特
性だとか癖だとかを全て放っぽって恋心を抱くなんてどうかしてる。そんな無責任な行為
をする無責任な周囲を危惧すらしていた自分がそれに走るなんて俄かに信じがたいのは至
極当然のことだ。ただ、そのときに私の心の中身は御裾分けなんて微小なものじゃなく、
そっくりそのまま目先の相手に奪われてしまっていたのが事実だった。
眼前の彼女たちの反応はみんな千篇一律で、その統一感は些少ながら焦れるものだった。
こんなとき、誰か1人ぐらい 突拍子もない意見を口にできるのはいないものか、と。
”その人はきっと探偵よ、あんたを見張るために猿芝居して近寄ったのよ”
”自分の事を一切語らないんでしょ、あんたの異母兄弟が金目当てに素性を隠してるのよ”
だとか、言う人はいない。皆、何かしら興奮剤を打ったように私の話に耳と身体を傾け
ていた。
「やばいって、絶対に何かされるよ」
彼女たちの心配は、彼が物欲や性欲に目がくらんで奇行に走ることのようだ。それは心
配いらない、彼がそんな例にならったような行動は起こさない。彼の瞳を見ていれば分か
る、それは一切の欲を排除した無心的なものだ。私たちの視界の限界を越えた先を見てい
るような、そんな瞳だ。金目のものなど欲しない、異性の肉体など欲しない、それぐらい
分かる。眼前の彼女たちの思考は現実的で、彼の思考は非現実的で、交わることはない。
彼女たちの考えは、彼には当て嵌まらない。彼は私たちよりももっと深いところにいる、
海底をひたすら迷っている。私がいくら水化していようと届かないほど深く、その身体は
沈んでいる。私ももっと深くに行きたい、こんな中途半端な水深にいる自分がいじらしい。
あなたの姿は見えてるのに、その距離は果てしなく遠い。触れてあげたい、包んであげた
い、同化してあげたい。
その日は寄り道することなく、授業終わりのチャイムとともに帰路についた。自宅に戻
ると、彼の姿がまだそこにあったことに息をついた。彼はリビングの菜種色のソファに身
を縮めながら座り、窓の外の赤みの強まっていく夕空を眺めていた。
「・・・ただいま・・・」
返事はなかった、おかえりと言ってもらうのを期待していたわけでもない。彼は私に背
を向けたまま、ただ少しずつ色味を変えていく空合いを見続けていた。スカイブルーから
オレンジへ、オレンジからダークブルーへ。その変化を楽しむでもなく、いくらでもとい
ったようにその景色に体を向けていた。スカイブルーを己に映す彼の瞳には、屈折的な匂
いをうかがえた。オレンジを己に映す彼の瞳には、濃淡的な匂いをうかがえた。ダークブ
ルーを己に映す彼の瞳には、何もなかった、ただの無だった。なにもかも諦めたように、
何の色味もなく、何の匂いもうかがえなかった。
彼がようやく私と目を合わせたのは夕食のときだった。目は2回合ったが、通わせるべ
き情もなかったので自然性をもって目線を逸らした。彼は朝食と同じように単調に手を動
かし、用意したパスタを軽く平らげた。夕食時に会話はなかった、私から話しかけなかっ
たし、彼から話しかけられることも無論なかった。大学の授業の話やら、友達に昨日と今
日のことを告げた話やら、探せば話題はあったのだが どれもここで話す内容ではないなと
感じた。
かといって、彼のことを根掘り葉掘り聞いていくこともしなかった。彼はきっと身体の
中に傷を負ってる、そこに新参者の私が入り込むのは違うと思った。干渉はしなかった、
したいけどしなかった。私から「いつまでここにいるの」とは言わないし、彼から「いつ
いつまでここにいる」とも言わない。言った時点で、彼が離れていってしまいそうで、張
っていた線が何者かに切られてしまうような気がして、そこへ踏み込むことはしなかった。




