第3話
私は雨が好きだ、雨の日のひんやりした空気が好きだ、雨の日のじめじめした湿度は嫌
いだ。ただ、今はそいつが敵になっていた。私に一粒 二粒と吸いついては この身体と同
体となっていく。そいつらは病原菌のように、私の身体内に入り込んでは内側から一刺し
二刺しといたぶっていった。
帰路にある駐車場に入った、そこの外部と内部を隔てる金網に彼を凭れさせると 私は崩
れるようにその場に腰を落とした。私は久方ぶりに全力で駆けたように息が切れていた、
もう結構に体力は無くなっていた。いつもなら15分で辿り着く自宅までの道程に、すで
に30分を費やしている。さすがに低下を続けた体力が限界にきてしまい、小休止でここ
に入った。駐車場は30台ほどの車が停まれるくらいの大きめの場所だった。辺りを見渡
せば、色とりどりの国産車や疎らなくらいの外車があった。この雨で人通りも少なく、私
たちがそこにいる間に姿を見せる人も、停発車をする車もなかった。
空を見上げると、無数の点が私にめがけて落ちてきていた。下から見遣る雨粒は点状だ
った、いつも見てる線状のそれと違って新味があった。新しい発見、あくまで常識の範疇
における。点状の粒たちは連続的に落ちていく、私の髪に、頬に、腕に、足に、至るとこ
ろへと。
それは私にとって気持ちのいい時間だった。私は雨に打たれるのが好きだ、自然と一体化
されたような気分で嬉しくなる。快晴の燦々とそそぐ陽光を浴びる心地良さ、それと同類
のものだ。だが、これを理解してくれる人はきっと少数派とされるだろう。きっと、私の
身体に巡る要素には他の人よりも水分が多く含まれてるのではと思う。人間を構成する要
素の70%は水分、私は多分それよりも水分のパーセンテージが上をいってるのだ。だか
ら、私は雨を好む、身体で受けることを好む、吸い入れることを好む。大雨よりも小雨を
好むし、真上から落ちてくるよりも斜めに打ちつける雨を好む。水化された人体、とでも
表現すれば枠に嵌めることが出来るだろうか。
右隣の彼を見た、さっきまでと同じように目を閉じたまま 意識が飛んだままでいた。
眠っているのか、気絶しているのか、外見では判別できない状態だった。肌色はいやに白
く、唇は青ざめて、死人にも見え兼ねる姿に胸を締めつけられる思いがした。心臓をグッ
と掴まれたように、痛くて、切なかった。早く彼を助けてあげないとと思うと、ぐっと力
が湧いてきた。というより、私の奥底に沈んでいた力が押しあがってきたようだった。小
瓶の底に堪ってたジャムやら調味料やら屑物のように、こびりついてたものが捲れて私の
表面まで届けられた。
だるんだ彼の身体を再び背負うと、自宅までなんとか辿り着くことができた。玄関口に
倒れこむように崩れると、私は短い間隔で呼吸を続けた。両腕は痺れを起こしそうに、両
足は筋肉痛を起こしそうに、腰は骨盤がくねりそうに痛かった。思えば、年頃の男性を背
にしたことなどないし、背にする機会もほとんどない。おそらく、背にすることもないま
ま人生を終える女性だって少なからずいるはずだ。
ひとまず、呼吸が落ち着くまでくすんだ色合いの玄関口の天井を眺め、それが安定にな
ると起き上がって彼を浴室まで運んだ。水化された私はともかく、私よりも長時間 雨に打
たれ続けた彼の身体を温めないとならない。風邪や高熱は覚悟できるが、その先まで事態
が進行すると厄介になってしまう。脱衣所で彼の身ぐるみを一つずつ脱がせていく。これ
までは雨音で消されていたが、微小ではあるが彼の呼吸の音が聞こえた。その不安定な呼
吸の仕方に、なぜだか胸の内がきゅっとしぼんだ。意識のある男性の衣類を脱がせる行為
に破廉恥さを抱かずにはいられなかったが、これは緊急事態だと己を納得させ、その身体
を裸にさせると浴室でシャワーを浴びせた。冷化した膜を剥ぎ落としていき、やがて彼の
肌に体温が戻ってくる。面倒くさいので、衣類を着けたままだった私もシャワーを己に浴
びせた。どうせ、すぐそこにある洗濯機に入れるのだから、いまさら 濡れるだのは関係な
い。それぞれ失われた熱を取り戻すと、私は紅梅色のパジャマに着替えた。彼には来客用
のLサイズのパジャマをカラーボックスから取り出し、着替えさせることにした。男物の
下着なんか無かったので、迷ったが裸にそのまま着せた。
リビングの菜種色のソファに彼を寝かせて顔色をのぞきこむと、発熱や発病の様子は見
られなかったものの、その身体が弱っているのは分かりえた。少なくとも、この数日間は
大したものも口にせず、大した生活もできてないのだろう。
「・・・病院に行った方がいいよね・・・」
そう口ずさむと、彼の右手が私の右腕をグッと握りしめた。どこにそんな力が残ってた
んだと言いたくなるほど、きつく痛く締められた。彼の顔を見遣ると、微かに開かせた瞳
で私を睨むように見ていた。
「・・・病院、病院が嫌なのね・・・」
そう言うと、力の込められていた彼の右手が脱力的に私の腕からするりと解けた。力の
失った彼の右手はソファに叩きつけるような音をたてて落ちた。私は病院に彼を連れてい
くことを諦めた。彼がそんなに病院を嫌悪する理由は分からないが、彼の意思に従うこと
にした。
しばらくすると、彼はソファの上で眠りについた。多少、戸口をノックしたところで応
答がないであろうほどに深い眠りに堕ちていた。私は暖房の暖風の直接あたるソファの前
で膝を抱えて彼の寝顔を見続けた。細長い目は瞼を閉じていてもそれが分かった。何かに
怯えてるような、何かを恐れてるような、そんな目を彼はしていた。そして、その目に取
り憑かれるように 私の瞳は彼を見ていた。
”そんな目をしないで・・・”
何度と訴えても、彼の目の奥にある戸口は閉じられたままだった。その戸の中には何が
隠されているの、数えきれない絶望感、抱えきれない堕落感、それとも・・・。
私は無駄と悟りながらも何度とその戸口をノックした。戸口をこつくたびに私の瞳から
雫が零れ落ちていく。その瞬間、触れた戸から彼の中に蠢く姿形のない感情が伝わって、
その捉えきれない切なる情が私の内部に込み上げてきて瞳で雫をかたちどっては溢れた。
彼はそのまま朝まで眠り続けた、深い深い眠りについて。




