第2話
不変的な時の流れが続くはずだった、今までも、これからも。昨日と同じようにパープ
ルのラインの入った電車に乗って、身を運ばれた。昨日と同じ駅で降車し、人の流れに身
を置いて流動的に歩を進ませた。何も変わらぬはずだった、退屈で憂鬱な日々のはずだっ
た。
なのに、それは私の前におこった。
そして、彼は私の前にあらわれた。
改札をぬけて左手に曲がると、私の視界に映り込んだのは死人のような男性だった。起
床したままで家を出たような無作法で不躾な荒々しい髪型。世の中のあらゆる卑劣で残虐
な行為を見てきたような物悲しげな瞳。白セーター・ぼろぼろのジーンズ・草履と、何か
を諦めたような服装。
私の視界は瞬時にして、その佇まいに完全に奪われた。二足歩行の機能を喪失したよう
に そこへただ立ちすくむことを続けた。両目は点になり、まばたきを忘れたように瞳を見
開いたまま、心の奥底まで、身体中のありとあらゆる箇所まで奪われたように停止を続け
た。思考をやめたように無心でそこへ座り込んでいた彼の姿は綺麗だった。何もかもを捨
てたように、傷つけたように、忘れてしまったように、黒空から降りてくる雨粒たちを己
の身体に迎え入れていた彼に芸術性を感じた。罪事を抱えたように濁りの混じった彼の瞳
は、あまりに透明で、あまりに不透明だった。胸の中がどくどく高鳴った、享楽を覚えた
ように鼓動は波を打った。彼の瞳の奥にある切事を見遣ろうとすると、自然と私の右の瞳
から涙が流れた。なにか確証が見えたわけじゃないのに、そこに手をかけようとしただけ
で その苦悩の広大さが手に取るように感じ取れた。なんて哀しみを抱いた人なんだろう、
私の苦事なんてちっぽけなほどに。
”そんな眼をしないで・・・”
彼の瞳を見遣るたびに私は涙の粒を垂らした。同時に、心内がその哀しさに染め替えら
れていってるのも分かっていた。
しばらく、私はそこに立ち続けていた。正確にいうと、そうすることしかできなかった。
身体の中の循環機能の巡回を忘却したように、そうすることしか私はできなかった。そこ
に元々あった柱みたく、茫然自失と私はそこで彼のことを見ていた。私の前をすりぬけて
いく大人たちは眼前の彼に一文の興味すら抱かない。視線を一度送っては、送ったことを
消失させるようにすぐに前方を向き直す。
そんな奴らを思い切り睨みつけてやりたかった。やっぱり、お前らなんて正義面してる
悪の化身でしかないんだ、と怒鳴ってやりたかった。彼自身もそんな大人たちを視線の焦
点に合わせることなどせず、ただただ左下あたりに打ちつけられていく雨粒たちを細目で
見ているだけだった。幾分かすると、彼の身体は雨で濡れきったコンクリートの地面に静
かに倒れこんだ。冷たいコンクリートに左側を濡らせ、上空から降りてくる粒たちに右側
を濡らせている。その瞳が少しずつ霞んでいく、瞼を閉じるという表現は明らかに違って
いた。彼の様子がおかしいのは一目瞭然だった。
私は何を考えることもせず、彼のもとへ駆け寄った。左脳よりも先に右脳が働いた、も
しも左脳が先だったとしても同じ動作をしただろう。倒れこんだ彼の身体を抱えると、身
体中の体温を失ったように冷化しているのが分かった。このまま段々と体温は低下してい
き、やがては底をついてしまうような気がした。このままにしておいてはいけない、そう
思うと情よりも先に体が動いていた。彼の冷体を背負うと、そのままおぶって運んだ。成
長期を終えたあたりの男性の身体を背にするのは容易ではなく、傘も閉じて 降り続く水の
粒たちを受けながら狭められた歩幅でもって進むしかなかった。彼の身体は重く、軽かっ
た。私一人で持ち上げる重みとしては軽易であるはずないが、その身体は筒状のスナック
菓子みたいに中味が刳り貫かれたように軽かった。おそらく、ろくな生活をしていないの
であろうことはそこから汲み取れた。
擦れ違っていく人の波の流れをひどく冷たく感じた。皆こちらを見遣っては何事も感受
しないように通過する、その連続だった。彼ら、彼女らに私たちの奇妙な姿はどう捉えら
れたのだろう。救急患者の兄か弟をおぶさって病院へ駆け込む途中の姉か妹。それが妥当
な線だろうか、だがそんなふうにすら思ってやいないだろう。一様に視線をくれては蔑む
よう、見下すような細ませた眼でいた。触らぬ神にたたりなし、そんな様相で通り過ぎて
いく。その冷視線に私の心内には憤感も生じた。あなたたちのような傍観者に何をそんな
仕打ちをする資格があるというのか。あなたたちが何を知ってるというんだ、何を分かっ
てるというんだ。あなたたちは時間にして2〜3秒の私たちの画を切り取って見ただけだ
ろう。それ以前の何もない、それ以後の何もない、抜粋された僅かな切り画、それだけを。
それで何を悟ったように私たちを見下すんだ、愚人だらけの群集たちよ。あなたは神か、
仏陀か、キリストか、それに匹敵しうる聖人なのか。
雨粒に湿らせて重力を含んだ服と、彼そのものの重力が次第に私の体力を奪っていった。
それによる疲労を紛らすように、私は右に左に分け抜けていく人々に苛立ちを覚えていっ
た。
昨日、映画「メゾン・ド・ヒミコ」をレンタルで観ました。
選択理由は、現在執筆中している最中の小説の参考にと思い。
じきに、小説はここにも掲載するかもしれません。




