第13話
雲が流れていく、昨日までとは違う真っ白な雲たち。
風が流れていく、昨日までの湿度の高い風じゃなく、純度の高い風が。
潤った空気も、水化された私の身体に気持ちのいい感覚をもたらしてくれた。そんな天
気の下で、私たちは一面に拡がる雪原を歩いていた。一昨日までに蓄えられた雪景色は、
2日が経った今日でも完全に生きている。見渡すかぎりの雪化粧は、直進する射光と交わ
って煌きを浮かばせていた。こんな光景を目の当たりにしたのは初めてで、私は胸の内の
全部を奪われたように立ち尽くしていた。左斜め前にいた彼も同じように立っていた。こ
んな素晴らしい世界の中、彼と同じ空間、時間、心内を共有してるのが嬉しかった。
しかし、この白銀の世界が思いもよらぬ強敵になった。足をとられ、思いのままに進め
ず、何よりこの白世界はあまりにも果てしなかった。歩いても、歩いても、前には雪道が
伸びていた。上を見上げれば青く澄んだスカイブルー、下を見下ろせば光り輝くピュアホ
ワイト。私たち以外の人が遠望したのなら、どんなに心酔する景色だっただろう。眺望す
る遠景としては最高の要素が揃っている、私だって歩き出すまではそうだった。でも、今
の私たちにとって、それは瞳に映ってるだけの二次元の絵画でしかない。絵画展で目にす
る、笑みを供給してくれる感動的な作品。いつもならそうだ、ただ現実世界は甘くはない。
太平洋を泳いでるような、宇宙空間に飛び出したような、そんな先の見えない絶望的な前
景だった。
大丈夫か、と彼が定期的に声をかけてくれた。大丈夫、と私は笑顔で言う。彼がこれま
で与えてもらえなかった笑顔、今日は彼の前ではそれでいようと心掛けていた。本当は足
が痛くなってるけど我慢した。これは散歩なんかじゃない、ハイキングなんかじゃない、
逃走なんだ。彼にとっては命がけの行為で、私が彼の邪魔になることだけは嫌だった。
私はまっさらな雪地に足を踏み入れるのが嫌いだ。降り積もった雪に靴が入り込む、あ
の擦れた音が苦手だからだ。なんか、発砲スチロールを擦るときの音に近い気に駆られる。
今日はというと、なんとか私の不安材料は払拭された。数分前、数十分前、あるいは数時
間前にここを歩いたであろう人たちの足の跡がくっきり残されていた。その足跡の上にだ
ぶらせるように、歩を進ませていけばいい。そうすれば、まっさらな雪面と闘うことがな
い。気をつけて、目の前のかたどられた跡に自分の足を入れていく。彼ら、彼女ら、そし
てその上に踏み込まれて刻まれた私たちの足跡はただその数を増やしていく。
一つ、私たちはミスをしていた。前に後ろにありふれるほどある長靴サイズの大きな跡
は幾重にも踏み込まれてあり、スニーカーでその上を歩く阿呆者は私たちぐらいであろう。
2日間を経過した雪原といえど、北国のそれを甘くみてたのかもしれない。10cmほど
積もった雪がスニーカーと両足の小さな隙間から我も我もと中へ侵入してくる。靴下ごし
に伝わる半直接的な寒物はただでさえ冷却した私の足元をさらに攻めてきて、雪々によっ
て湿りきったスニーカーの内底の感触は何とも気持ち悪いものだった。こんなことなら、
昨日のデパートでの買物のときに長靴を買っておけばよかった。もちろん、あのときに購
入は考えた。ただ、北国出身者でない私には、長靴というものがどこか格好悪い概念を持
っていた。そんな余計なプライドが自分を苦しめることになるとは露知らず。彼の方をち
らりと見遣る、彼は黙々と歩を進めていた。
今の一歩を踏むこと、次の一歩を踏むこと、未来も見えないようなその繰り返しを続け
ること、ただ目の前に見える前景に少しずつ近付いていくことしか私たちにはできなかっ
た。北国の寒さと闘いながら、流れるように出てくる鼻水を何度もすすりながら。鏡で確
認はしてないけれど、唯一肌が露出している顔のいたるところが赤く染まっていたことだ
ろう。少しずつ、少しずつ、一歩を踏んでいく。それは希望へ向かってるはずなのに、な
ぜか絶望に向かってるようにしか思えなかった。確実に逃走の一途を辿ってるのに、逃走
という単語が重くのしかかってくる。彼と一緒にいられる現実と、何故に彼と一緒にいる
のかという現実。そんな悪循環な思考回路が順応している己を堪らなくいじらしく感じた。
希望すら絶望に感受してる私に希望を手に入れる資格などない。私は馬鹿だ、愚かだ、最
低だ。自分を叱咤することで彼との現実を繋ぎとめる、私にはこんなやり方しかないのか
と思うと泣きそうになった。
じゃあ、私と歩いてる彼も同様なのだろうか。私と同じことを考え、巡らし、駆られ、
自らの惰弱さに呆れているのだろうか。私と一緒にいることに責任のようなものを感じて
るのだろうか。そうならば、私に彼を救うことなどできない。私といても責務の念に駆ら
れるのなら、彼は私といても幸せを手にすることはない。掴もうとしては、渓流の澄明な
水々のように手元からすりぬけていくのだろう。
”私はここにいてはいけないの?”
”私が彼を苦しめてるの?”
そう思うと雫が瞼から流れていた、自分が情けなくて、情けなくて。想い人の一人も救
えない、身代わりになることもできない。一緒にいることしかできない、それで彼が救わ
れるのかも分からずに。
遥か先方に見遣れる雪山の向こう側から吹き付けているであろう冬風が私たちの身体を
凍らせるように冷却化させて吹き抜けていく。ただでさえ、雪原に、冷感に、と悪玉のパ
レードのような状況だっていうのに。そんな中でのこの冬風は、結構な度合いの悪玉っぷ
りだった。10秒に1回のペースで、その冬風の通り道は繰り返されていく。びゅう、び
ゅう、と彼と私のありとあらゆる隙間を通過していく。その音色といったら、やけに痛々
しく私たちの聴覚を刺激した。冷風は私たちの体温を奪い、体力を奪い、張っていた気力
の塊でさえ崩していった。氷像を砕くように、一つ、二つと願いを取り去っていく。なに
か私に恨みでもあるの、私が何をしたっていうの。そう逆ギレしてやりたくなるくらい、
心内に苛立ちが走った。
一つ一つ作られていく足跡で出来た雪歩道は私たちの靴底の汚れと自然雪があいまって
黒みを帯びた何とも言えぬ質度の悪い低度の化粧が施されていた。踏み入れた足跡は、白
の世界を通り越し、元の地面を見遣れるところもある。濃いめの茶系色があったり、積も
った雪の重力ですっかり萎れて気力をなくした雑草。それとは対称的に、左右に広がる雪
化粧は私たちの心を奪うような純白の色味を見せていた。私たちの通っていた雪道の周囲
は、まだ誰も足を踏み入れていない透き通るようなピュアホワイトが広がっている。瞳に
映し出された白世界はあまりに素敵で、空から降る射光が雪面上に反射しては浮かび上が
る無数のプリズムの煌きには美しさしか感じれなかった。
それらは、萎えていた私の心持ちを持ち上げるには十分なもので、左斜め前を歩く彼に
定期的に送る笑みを浮かばせる気力を私に与えてくれた。心中の希望の絶たれる寸前まで
不透明で不安定だった私の心情とは懸け離れすぎていたその雪景色に私は嫉妬すら覚えて
しまった。こんな綺麗なものが存在するなんてずるい、と。生まれ育った境遇の如何によ
って、己の手を汚してしまった彼に対して。
なんで、彼がこんなことにならなければならなかったのか。彼は心底腐りきった人間じ
ゃない、人の肌に傷をつけることに発奮を覚えている人間じゃない。ただ、他の人よりも
周囲の愛情を受けてこられなかった、淋しい人間なだけなんだ。そんな彼が実の親を血に
染めてしまい、国家機関から逃げ隠れ、その手に捕まった暁には牢獄に閉じ込められ、厳
しい罰を受けなければならない。そんなの不公平じゃないのか、彼があまりにかわいそう
じゃないのか。こんな展開にしか物事を運べない現実なんてクソ喰らえだ。私が彼の力に
なる、彼をいつまでも救うことは出来なくとも。彼がこれからの未来に僅かでも希望を見
い出せる要素、それになってあげたい。きっと、きっと、明るい夜明けが来るはずだ・・・。
希望という絶望を背負い、その希望に向かって歩いていた。
「・・・助けて・・・誰か・・・」
そう心内で唱えつづけた。特定の誰かに発した信号じゃなく、周囲半径1kmぐらいに
届き渡るように鳴らした警鐘だった。私を発信源として、不特定多数の者へ向けて。波状
のように、ただ遠くへ、ミクロ単位でも遠くへと飛ぶように轟かせた。その軌道は突き刺
さるようなライナー性のものでもいいし、壁に当たれば木っ端微塵に砕け散るような緩い
ものでもいい。この闇雲に拡がる白世界の先にまで渡っていくように、私の中の隅っこに
微小に残っている気力を身体外へ飛び立たせ、空中分解したのち、あちらこちら、いたる
ところへと飛び散らせた。
「・・・誰か・・・誰か・・・」
信号のように、電波のように、あるいは命乞いに近いもののように発信する。そんなこ
とをしても聞き取ってくれる人なんかいない。受け取ってくれる人もいないし、受け取ろ
うとしてくれる人もいない。彼ら、彼女らは、見ず知らずの人間が必死で届けている助け
に気付きはしない。どれだけ必死かどうかはおろか、助けを乞うこと自体を受信してはく
れない。そんなの分かってる、でもこのまま終わりに向かって進んでいくことなんて出来
ない。その終結は誰しも切望する美楽的なものではなく、私たちの終結そのものを示すも
のでしかないから。私は悲しい、そんな終結が私たちに起こるのを。
誰でもいい、私たちの現状を理解してくれなくてもいい。ただ・・・ただ、助けて・・・。
このままじゃ・・・彼が・・・。やがて来る未来図を思い巡らせると、自然と水の粒が頬
を伝った。唇に触れると、塩っ気があって気持ち悪かった。水の粒は何度と顎先から雪原
へ落ち、雪原の白雪を少しへこませる。音はたてないように気をつけた、彼には泣き顔な
んか見せたくなかったから。
見渡すかぎりの雪世界も、果てが見えてきた。視界の奥の方には、対向する車が幾度と
行き交う県道が見える。空間的な先々はいくらでも見遣れるのに、時間的な先々は全くの
未知でしかない。この先、私に何が待ち構えてるのか。彼はこの前景の先に何を見てるの
だろうか。そして、その先にどんな未来図を宿してるのだろうか。思考を凝らしても答え
に行き着きはしなかった。左斜め前を歩く彼が一体何を思っているのだろうか。私はまだ
彼の考えてることの片鱗もつかめてはいなかった。あなたは不思議な人だ、他人に胸の内
を窺わせることをしない。私でさえ、微かに気持ちを通わせてくれた私でさえ、彼の心内
を探るのは無理だった。私も彼の例外にはなりえなかった、彼には一寸の隙もないかのご
とく。もうちょっとでも心扉をのぞかせてくれれば、あなたを分かってあげられるのに。
きっと、あなたの過去に突き刺された傷を労わってあげられたのに。あなたの背負う忌ま
わしい出来事、それごと抱きしめてあげられたのに。あなたは・・・あなたは本当に淋し
い目をした人だった。




