第12話
目が覚めたのは、月が沈みゆき、太陽が顔を出しゆく、その間だった。私は窓際の畳の
上で眠りから戻った。窓が少し開いている、彼がそうしたのだろう。私の体に向こうに敷
かれている布団の掛け布団が乗っかっている、彼がそうしてくれたのだろう。その彼がい
なかった、部屋のどこにも。そういえば、昨日も同じ状況だった。でも、私は自然と焦り
はしなかった。確定的な自信はないのに、彼は近くにいる気がした。昨日、これ以上ない
くらいに抱き締めた彼の体温が近くに灯ってる気がした。
夢は続かなかった、当然の流動として私は現実世界に戻された。あのまま、水深の世界
で彼といられたなら、この先にある苦しみを味わうことはないのに。何故、彼にそんな苦
痛を与えるの。これまで、彼にどれだけの精神的苦悩が降りかかっていたと分かってるの。
もしも分かってるのなら、彼には付きまとわないであげて。彼を解放してあげて、明々な
未来へ。そう思いながら、窓外を眺めていた。遠くの山際から、ぼんやりと今日の太陽が
姿を見せていた。
私が起きてから30分後、彼が部屋に戻ってきた。浴衣に上着を羽織った格好でいた。
私の方を一目見遣って、向き直して椅子に座る。
「・・・どこ行ってたの?・・・」
一応、聞いてみた。
「・・・2階の溜まり場、外の景色がよく見える・・・」
ふぅん、そうなんだ。
「・・・どんな景色だった?・・・」
興味があって、聞いてみた。
「・・・昨日来た道だよ、少し雪は引いてる・・・」
昨日の夜から雨は引いていた。さっき、私が見ていた太陽も数日ぶりのはっきりとした
お日様だった。
「・・・今日の朝食、何だろうね・・・」
話題が浮かばなかったので、こう聞いた。彼の返答はなかった、素っ気ないところは相
変わらず健在だった。でも、彼らしいから面白かった。
朝食の時間が訪れ、旅館が用意してくれた食事を宿泊客全員で食した。朝食は質素な和
食、日本人の朝食の模範例だった。私の大好きなメニューだったのが嬉しかった。周りで
は昨日と同じ人たちが昨日と変わりない格好で昨日と同じように食べている。ここにいる
人たちからすれば、私たちは間違いなくカップルに見えるはずだ。私も昨日と同じことを
考えてた。それはやはり嬉しいようで、嬉しくない。いやっ、昨日よりも嬉しくないかも
しれない。実際、私たちはカップルでも何でもない。それが私の胸の内をキュッと締める、
もどかしくてやりきれない気持ちが襲った。そして、ここにいる人たちは、私たちが警察
から逃げているなんて思いもしない。彼がおそらく指名手配されてるなんて、微塵も考え
はしないだろう。
急に不安な気持ちに駆られた。彼が逮捕されたら、その現場にいた私も同様になるだろ
う。彼と同罪の容疑がかけられ、耐えきれない尋問を受けるはずだ。両親や親戚や友人の
顔がちらつく、みんなを悲しませることになる、と。朝食のメニューに目がいく、もしか
したらこれが最後の彼との食事になる可能性もあるから。
「・・・お前は帰れ・・・」
朝食が終わって部屋に戻り、出発の支度に取り掛かってるときに彼が開口した。その言
葉に、どこか冷たいものを感じた、それを嫌だと感じた。
「・・・帰れって、どういうこと?・・・」
その意味はうっすらと分かっていた。それでも、にわかに信じがたくて彼にその意味を
訊ねた。
「・・・お前は昨日来たとおりに家まで帰れ・・・」
そんなこと言ってるってくらい、分かってるわよ。あなたが何で、そんなこと私に言う
のかってことを聞いてるの。
「・・・何で、そんなこと言うのよ・・・そんなこと言わないでよ・・・」
切な瞳で彼を見つめていた、まるで親に捨てられる前の子供みたいな瞳で。すがるよう
なことはしないけれど、そんな気持ちを瞳を通して訴えていた。昨日、私がここまで着い
てくる間、彼は一度もそんなこと口にしなかった。帰れとか、着いてくるなとか、何も口
出しはしなかった。私はそれで、彼が私のことを受け入れてくれてると少しでも思ってた。
ほんのちょっと、彼が心扉を開いてくれてると思った。
それは違うの?
私のただの勘違いでしかないの?
「・・・俺と一緒にいたら、お前も犯人と思われる・・・」
さっき、私が考えたのと同じ懸念だった。
「・・・心配してくれてるの?・・・」
それとも、私はお荷物なの?
彼は何かを考えるように口ごもる、そして口を開いた。
「・・・お前には家族がいるだろ・・・だったら、そこに帰ってやれ・・・」
突かれると、1番痛いところだった。それもさっき考えた、正にのところだった。私が
捕まりでもすれば、家族が悲しむ、親戚が悲しむ、友人が悲しむ。みんなのその顔が浮か
ぶと、心内が揺らぐのも事実だった。
「・・・帰ってやれ、親がいるんだから ちゃんと近くにいてやれ・・・」
それは、彼が彼自身に向かって言ってるようにも聞こえた。彼だって、そうしたくて親
を殺めてしまったわけじゃない。認めてほしかっただけなんだ、彼が願ってたのはそれだ
けだった。私も小さい頃にテストで100点を取って勇壮な気分で親に見せたら、私の頭
を撫でては喜色の言葉を並べたり、奮発した夕食を作ってくれたりしたものだ。今にして
思えば何ということはない、単なる親バカというやつだ。彼にはそれがなかった、自分よ
りも万事に長けている兄がいたから。
何も大きなことなんて望んでやしない。頑張ったときに褒めてほしい、喜んでほしい、
笑顔を見せてほしい、ただそれだけでよかったのに。彼は生まれてくる環境が悪かった、
それだけで彼は実の親を殺める指名手配犯になってしまった。きっと私の家にでも生まれ
ていれば、こんな未来が待ってることはなかっただろう。
彼のことがどうしようもなく淋しい人間に思え、何より愛おしいと思った。俯くように
顔を下に向けていた彼の両手の上に私の両手を被せた。彼の目線が彼と私の両手に向き、
その後に私の顔に向けられた。見つめ合っていた彼に唇をつけて、抱き締めてあげたかっ
た。でも、出来なかった。深みに入れば入るほど、その後にある別離が苦しくなる。
「・・・今日だけ・・・」
「・・・今日だけ、一緒にいさせて・・・そうしたら、私はここを離れるから・・・」
あと一日、まだ踏ん切りのつけられなかった自分への提示として言った。彼も承諾して
くれた、何も言わずに支度を始めたのがそれを意味していた。よかった、フッと胸をなで
おろす。今日は彼と2人で時を過ごす、追っ手からの逃亡という名の時を。歩こう、彼の
伝う道の後ろを。そして、今日の夜、彼に抱かれよう。彼の身体の一つ一つを克明に記憶
しよう、二度と忘れることのないほどに。2人で何も話すこともなく、明日の朝を迎えて
彼のもとを去ろう。いつか、絶対に再び巡り会えることを約束して。




