第0話
「・・・助けて・・・誰か・・・」
そう心内で唱えつづけた。特定の誰かに発した信号じゃなく、周囲半径1キロメートル
ぐらいに届き渡るように鳴らした警鐘だった。波状のように、ただ遠くへ、ミクロ単位で
も遠くへと飛ぶように轟かせた。その軌道は突き刺さるようなライナー性のものでもいい
し、壁に当たれば木っ端微塵に砕け散るような緩いものでもいい。
「・・・誰か・・・誰か・・・」
そんなことをしても聞き取ってくれる人なんかいない。受け取ってくれる人もいないし、
受け取ろうとしてくれる人もいない。そんなの分かってる、でもこのまま終わりに向かっ
て進んでいくことなんて出来ない。その終結は誰しも切望する美楽的なものではなく、私
たちの終結そのものを示すものでしかないから。誰でもいい、私たちの現状を理解してく
れなくてもいい。ただ・・・ただ、助けて・・・。このままじゃ・・・彼が・・・。やが
て来る未来図を思い巡らせると、自然と水の粒が頬を伝った。唇に触れると、塩っ気があ
って気持ち悪かった。
歩いても、歩いても、前には雪道が伸びていた。私たち以外の人が遠望したのなら、ど
んなに心酔する景色だっただろう。でも、今の私たちにとって、それは瞳に映ってるだけ
の二次元の絵画でしかない。太平洋を泳いでるような、宇宙空間に飛び出したような、そ
んな先の見えない絶望的な前景だった。
数分前、数十分前、あるいは数時間前にここを歩いたであろう人たちの足の跡がくっき
り残されていた。彼ら、彼女ら、そしてその上に踏み込まれて刻まれた私たちの足跡はた
だその数を増やしていく。長靴サイズの大きな跡は幾重にも踏み込まれてあり、スニーカ
ーでその上を歩く阿呆者は私たちぐらいであろう。10センチほど積もった雪がスニーカ
ーと両足の小さな隙間から我も我もと中へ侵入してくる。靴下ごしに伝わる半直接的な寒
物はただでさえ冷却した私の足元をさらに攻めてきて、雪々によって湿りきったスニーカ
ーの内底の感触は何とも気持ち悪いものだった。
この跡はどこへ伝っているのか、彼らは、彼女らは一体どこへ歩を進ませていたのか。
考えてみたのは一瞬だった、今の私たちにそんなことはどうでもいいことだから。今の一
歩を踏むこと、次の一歩も踏むこと、未来も見えないようなその繰り返しを続けること、
ただ目の前に見える前景に少しずつ近付いていくことしかできなかった。少しずつ、少し
ずつ。それは希望へ向かってるはずなのに、なぜか絶望に向かってるようにしか思えなか
った。そんな悪循環な思考回路が順応している己を堪らなくいじらしく感じた。希望すら
絶望に感受してる私に希望を手に入れる資格などない。私は馬鹿だ、愚かだ、最低だ。
じゃあ、私と歩いてる彼も同様なのだろうか。私と同じことを考え、巡らし、駆られ、
自らの惰弱さに呆れているのだろうか。そうならば、私に彼を救うことなどできない。彼
は私といても幸せを手にすることはない。掴もうとしては、渓流の澄明な水々のように手
元からすりぬけていくのだろう。
”私はここにいてはいけないの?”
”私が彼を苦しめてるの?”
そう思うとまた雫が瞼から流れていた、自分が情けなくて、情けなくて。遥か先方に見
遣れる雪山の向こう側から吹き付けているであろう冬風が私たちの身体を凍らせるように
冷却化させて吹き抜けていく。10秒に1回のペースでそれは繰り返されていく。びゅう、
びゅうと通過していく その音色はやけに痛々しく聴覚を刺激した。冷風は私たちの体温を
奪い、体力を奪い、張っていた気力の塊でさえ崩していった。氷像を砕くように、一つ、
二つと願いを取り去っていく。
一つ一つ作られていく足跡で出来た雪歩道は私たちの靴底の汚れと自然雪があいまって
黒みを帯びた何とも言えぬ質度の悪い低度の化粧が施されていた。それとは対称的に、左
右に広がる雪化粧は私たちの心を奪うような純白の色味を見せていた。瞳に映し出された
白世界はあまりに素敵で、空から降る射光が雪面上に反射しては浮かび上がる無数のプリ
ズムの煌きには美しさしか感じれなかった。心中の希望の絶たれる寸前まで不透明で不安
定だった私の心情とは懸け離れすぎていたその雪景色に私は嫉妬すら覚えてしまった。
彼はこの前景の先に何を見てるのだろうか。そして、その先にどんな未来図を宿してる
のだろうか。思考を凝らしても答えに行き着きはしなかった。私はまだ彼の考えてること
の片鱗もつかめてはいなかった。彼は不思議な人だった、他人に胸の内を窺わせることを
しなかった。私もその例外になりえなかった、彼には一寸の隙もないかのごとく。ほんの
ちょっとでも心扉をのぞかせてくれれば、あなたを分かってあげられたのに。きっと、あ
なたの過去に突き刺された傷を労わってあげられたのに。あなたは・・・あなたは本当に
淋しい目をした人だった。
明けましておめでとうございます。
私の小説も3作目がスタートになりました。
1作目「摩れた歯車」の陰の物語に対し、
2作目「リップ・ケーション」は割と陽の物語でしたが、
今作は陰の物語となります。
1作ごとに全然違うものにしようとは思ってるので、
自然とそうなるのかもしれません。




