てんきょう3
横浜市南区、中村川沿いの昭和初期の意匠を湛えた4階建てのコンクリート製の建物。
そこは、テナントどころかかビルの名称を掲げている看板すらない。
吸血鬼の駆逐を目的とする唯一の行政機関、その拠点だった。
根岸はその建物の一室に置かれた机の前で憮然とした表情で座っている。
それは、彼が不機嫌であることを示している。
そのことに気づいた同僚たちは、彼の机の半径5メートル以内に近づかないことを決意した。
控えめに言って根岸という男は普段でも一緒に居て愉快な気分になれる男ではなかった。
彼はこの仕事に対していささか偏執的な熱意を持っていることで有名だった。
しかし、何事にも例外というものは存在する。
「先輩、ご機嫌ナナメですね」
いつも何かをたくらんでいるような薄茶色の瞳と人懐っこい口角の上がった唇の持ち主である新杉だった。
根岸は馴れ馴れしい後輩を粘着質な視線で睨みつける。
「聞きましたよ。89式小銃と弾薬180発の使用許可を申請したんですって?」
「許可されなかったけどな」
根岸は面白くなさそうに答えた。
「ドラキュラ伯爵でも相手にしようとしたんですか?それともカーミラの方?」
笑いを含んだ声で新杉は言った。
「中西みずほだ」
「なんともまあ・・・」
その固有名詞を聞いた新杉は天井を見上げた。
彼女は横浜でもそれなりに名前の知れた吸血鬼だった。
人間を見下し、動く血液袋としか見ない連中とは距離を置く穏健派の長命種として知られている。
「一体、なにがあったんですか?」
目の前の男が吸血鬼の殲滅に並々ならぬ情熱を燃やすことは知っていた新杉だったが、穏健派の長命種を殺処分する気になった動機が気になる。
「くじら団地の周辺で吸血鬼絡みのコロシが増えたのは知ってるな?」
そのことについては、新杉も知っていた。
「殺ってたのは、最近になって転生したガキだった」
くじら団地は行政が管理を放棄した、いわゆる崩壊地区であり、不法移民や犯罪者の巣窟だった。
それゆえ、その地区の住民が吸血鬼の被害に遭っても問題は表面化しづらい。
「手口は杜撰だしすぐに目星がついた。あっさり処分できるハズだったんだ」
口調に悔しさが滲む。
「もう一歩のところであいつが邪魔をしやがった」
やれやれ、仕事熱心なのも考え物だな。
杉田は内心ため息をつきながら思った。
「先輩のそういう、ストイックなところは嫌いじゃないですけどね」
努めて明るい声で杉田は言った。
「ああいう比較的マシな類は、生かしておいて利用するのも手なんじゃないですかね」
再び新杉を睨みつけた根岸は、全く考慮に値しないとでも言いたげに荒々しく鼻息を吹いた。
最初、シャワーの水は茶色だった。
みずほに忠告されたとおりに水を出しっぱなしにしていたやまとはその水を頭から浴びずに済んだ。
天井はカビで覆われ、はるか昔に鏡があった場所には鏡の残骸が僅かに残っているだけだった。
そのような悲惨な浴室でも、やまとにとっては久しぶりのシャワーであり、充分に快適だった。
髪を洗い、全身くまなく水で流す。
自分の胸元を見た時、前とは違っていることに気づく。
まるで陶器のように肌が白い。
それは常人の色の白さを超えており、自分が人ではない何かになったことを自覚させられる。
わたし、これからどうなちゃうんだろう
やまとは自分自身を抱きしめると、頭上から降り注ぐ真水に打たれるがままに身を任せた。
浴室を出ると、やまとが以前着ていた高校の制服は無くなっており、真新しい下着と黒いミニのワンピースが置かれていた。
とりあえずそれらを身に付けるやまと。
脱衣場を出ると、みずほがソファに寝そべりながら本を読んでいた。
みずほは、やまとの姿を見る。
「さっぱりしたみたいね」
それは間違いない。
汚水や人間の体液をたっぷりと含んだ学生服は異臭を放っていたからだ。
「あの、ここまでして頂いてありがたいのですが」
この人は何を考えているのだろう。
それがやまとの懸念だった。
なんでこんなに親切にしてくれるの?
ここ数週間で環境が激変したやまとにとって、見返りを求めずに優しくしてくれる人物は疑惑の対象にしか映らない。
「あなた、わたしのモノになりなさい
後ずさりするやまと。
このヒト、何を言ってるの?
みずほの猫科の肉食獣を連想させる目に、面白いものを眺めるような感情がやどる。
「吸血鬼っていうのはね、縄張り意識がひどく強いの。あなたはここ数週間で派手に動きすぎてるから、くじら団地を根城にしてる吸血鬼からもあまりよく思われてないの」
なんてことなの。こんな化物になっても、世間のしがらみに囚われなきゃならないなんて。
やまとは目眩に似た感情を抱いた。




