第一話
やまとのわき腹の傷は最早、痛みとして知覚できる限界を超えていた。
それは熱さとしてしか知覚されない。
彼女はゴミと汚水が支配する路地裏をあえぎながら、這いずりながら逃げていた。
物理的なダメージならば、驚異的な治癒力を持つ彼女なら問題ないはずだった。
しかし、あの男が撃った弾丸は彼女わき腹にめり込み、彼女の肉体に最大限の苦痛を与えている。
あの噂は本当だったの?
ハンター。
銀の弾丸。
吸血鬼を狩る、ロクでなしども。
なんてことなの。ついてない。
足首まで汚水につかりながら、彼女は逃げる。
商売道具の紺色のブレーザーとグレイのプリーツスカートはドロドロだった。
胸元は白いブラウスとだらしなく緩めた臙脂色のネクタイ。
この恰好をして街頭に立っていれば、すぐに馬鹿な男が引っかかる。
あとは路地裏に引き込んでいくらでも血をむさぼることが可能だった。
それなのに何で・・・
やまとは遂に力尽き、その場に座り込む。
下着に汚水が染みこんできて不快だった。
わたしはここで殺される。
空を見上げると、薄汚いクリーム色の建物の囲まれた視界に、星一つ見えない夜空が僅かに見えた。
こんなゴミ溜めみたいな場所で。
規則的な足音が聞こえてくる。
野暮ったいグレイのスーツ、スポーツ狩りが伸びたような髪形の男が近づいてきた。
手にはチェコ製拳銃のCz100が握られていた。
その男の暗い目つきを見て、やまとは直感的に命乞いは無駄だと悟った。
こいつは憐れみや色仕掛けでどうにかなる相手ではない。
銃口が自分の胸元に向けられる。
「ねえ、教えてよ。ハンターさん」
それでも彼女は言葉を紡ぐ。
「わたし、好きで吸血鬼になんてなった訳じゃないんだよ」
死に一番遠い存在とされる吸血鬼が感じる死の恐怖。
「襲われて、いつの間にかこんなカラダにさせられて」
違う。死ぬのが怖いんじゃない。
「何が悪かったの?」
汚水まみれになって野犬のようにあっさり撃ち殺されるのが嫌なんだ。
「全部だ」
男は眉一つ動かさず、目の前の少女といっていい外見の吸血鬼に引き金を引いた。
記憶と夢がどんどん曖昧になっていく。
これは夢?思い出?
やまとの家は市街地からいささか離れた新興住宅街だった。
駅に近い塾からの帰り道は空き地や農地が点在する人気の無い道を通らなければならない。
彼女は日常的に自転車でその道を通っていた。
いつもと変わらない日常。
家に帰れば塾が終わって近くのコンビニで友人と下らない話題で盛り上がり、帰宅時間が遅くなったことを母親に叱責されるのが目に見えていたのでそれが気がかりだった。
そして、次の日の1時間目が苦手な数学だったことも彼女の意気を消沈させるには充分だった。
真横からの衝撃。
彼女は自転車ごと引き倒され、道路の脇の草むらに引きずりこまれた。
全身をアスファルトに叩きつけられた衝撃と痛みが収まる頃、彼女は恐怖に飲み込まれる。
状況からして交通事故ではない。
自分は誰かからの明確な害意に晒されている。
レイプされる。
本能的に感じる恐怖。
全身がこわばり、喉が張り付いたように声が出ない。
耳元に荒い息遣いが聞こえてくる。
何とか抵抗しようとするが、相手の力はあまりにも強大だった。
瞬く間に組み敷かれる。
首筋に生暖かい舌が彼女の首筋を這いずる。
次に感じたのは首元への鋭い痛み。
どういうこと?これじゃまるで・・・
そして、性的絶頂に似た快感が洪水のように押し寄せてくる。
あれからどれくらい経ったのだろう。
やまとは草むらから立ち上がる。
全身が痛い、けれども体の芯が痺れるような感覚も続いている。
右手で首元をふれると、生暖かい感触。
驚いて自分の右手を見ると血液が付着している。
更に確かめるように首をふれる。
2つの穴から自分の血が流れているのがわかる。
家に帰ろう。そうだ、家に帰ろう。
帰宅したやまとを見た両親は自分の娘を見てパニックになった。
彼女は全身擦り傷だらけで制服はところどころ破れている。
父親がすぐに警察を呼ぼうとしたが、やまとはそれを全身で拒否した。
「お願い、お父さんそれだけは止めて。わたし耐えられない。大丈夫、ケガは大したことないし、引き倒されてカラダを触られただけだから。」
それは自分が襲われて快楽を感じたことに対する罪悪感に由来していた。
首筋の血液については、公園の水道で洗い流していた。
驚いたことに2つの穴はすでに塞がっており、痣のような痕を残しているのみだった。
次の日から、彼女は学校にも行かずに自室に篭っていた。
何をする気も起きない。
太陽の光を浴びると酷く気分が悪い。
当初、両親はそれを突然の理不尽な暴力にさらされた娘の当然の反応だと理解した。
3日目、娘が一切食事をしないことを心配した母親は、彼女の部屋に粥を持っていく。
事件があまりにショックだったとしても、3日も経過して食事を一切しないというのは尋常なことではない。
ベッドで横たわっていたやまとは、母親の指摘に一瞬きょとんとした表情を浮かべた後に、そうだよねと笑顔を浮かべ、小ぶりな土鍋を受け取った。
その表情に母親は安堵のため息をつくと、部屋から退出した。
そういえば、小さい時から風邪で食欲が無い時は、お母さん、いつもこうしてお粥を作ってくれたなあ。
やまとは若干感傷的になりながら、湯気の出ている粥を匙で掬うと息を吹きかげて充分に冷ましてから口に運ぶ。
と、同時に吐き出してしまった。
え?
彼女の視覚と嗅覚はそれを粥であることを十分知覚していた。
当然、次に味覚が鰹節の出汁と卵、少量の塩でやさしく味付けされた味が口の中に広がるはずだった。
しかし、口の中に広がったのは耐えられない醜悪な味のするドロリとした物体だった。
まずい、のではない。
彼女は今の味が信じられず、もう一度粥を口に運ぶ。
何とか飲み込もうとするが、身体が拒否している。
無理して飲み下すが、強烈な嘔吐感がやまとを襲う。
ゴミ箱をひきよせてその中に吐いた。
母親を心配させまいと、やまとは土鍋の粥をすべてゴミ箱に捨てて、ドアの前において置いた。
再び布団に潜り込む。
これは現実じゃない。
彼女はそう言い聞かせると目を閉じ、耳を塞いだ。
次に目が醒めると、カーテンの向こうはとっくに日が落ちていた。
時計を見る。午前零時をまわっていた。
強烈なノドの渇き。
お水、飲まなきゃ
彼女は自室を出ると、台所に向った。
コップを水で満たし、一気に飲む。
それほどに耐え難い渇きだった。
一瞬、昼間の粥のようなことがおきないか不安になったが、水は彼女の体内に吸い込まれていく。
しかし、それだけだった。
渇きが癒えることはない。
彼女は不安になり再び蛇口から水を汲み、一気に飲む。
渇きは収まらない。
冷蔵庫を開ける。
彼女の家はあまり清涼飲料水の類を消費しない家だったので、飲み物を言えばピッチャに入った麦茶と牛乳くらいしかなかった。
ピッチャを手に取ると、コップに注いだ。
一気に飲む。
ノドに若干の抵抗は感じたが、何とか飲み込むことができた。
しかし、液体を飲んでいる気がまるでしない。
やまとは泣き出しそうになりながら、震える手で牛乳パックを取り出すと、コップに注いだ。
先ほどと同じように一気に飲む。
胃の内容物を全て流しにぶちまけた。
肩で息をしながら、彼女は流しに残留する液体を水道水で洗い流す。
幸い、両親が起きてくることは無さそうだった。
喉が渇いて仕方ない。
あれ、それからどうしたんだっけ?
とても酷いことになったような気がするんだけど
新聞記事を何度もコピーしたような、曖昧な画像。
あるいはブロックノイズだらけの動画。
そこからよく思い出せない。