三の篇
自宅のドアを開けた途端、私の腕の中にいた仔猫がじたばたと暴れ始めた。前足と後ろ足とで身体を器用にくねらせた仔猫は、私の両手のバランスが崩れるのと同時に、下駄箱から廊下、その先にあるリビングへと嬉しそうに駆けていく。
「まったく、はしゃぎすぎだよ」
私が仔猫の後を追いかけようとしたところで、リビングの床の上で堂々と寝転がっている缶ビールが私の視界に入った。私は何気なく、置きっぱなしになったそれを凝視する。中身を失い、大きく開けっ広げになった缶の周りでは、名前も分からない小さな数匹の虫が入り口付近を飛び回っていた。やがてそのうちの一匹が、何かに誘われるように暗く狭い部屋の中へと入っていく。
この缶ビールが、私の母さんが置いていったものだということは容易に想像が付いた。母さんは毎日のようにどこかへ出かけては、そのまま一週間は帰ってこない。たまに帰って来ても、どこからか持って来たビールを大量に飲んでは床で大きないびきを上げて眠り、起きたら化粧をした上で、またどこかへふらりと出かけていく。きっと男と遊びまわっているのだろう。もしかしたら今頃は、相手の家で昼夜を問わず情事に耽っているのかもしれない。
そんなことを考えていると、仔猫がにゃあん、と高く甘えた声を出した。私が仔猫へ目をやると、何か物欲しげな様子でこちらをじっと見つめていた。
「どうしたの? ミルク?」
私の問いかけに、仔猫はにゃあぁん、とどこか間延びした声で返事をする。もしかしたらその通りかな。そう解釈した私は、すぐさまリビングの端にある冷蔵庫へと歩を進めた。冷蔵庫の扉を開け、独特の香りが鼻に刺激を与えるのを感じ取りながら、牛乳パックを手に取る。まだ賞味期限が到来していないそれを、お椀の中に注ぎ入れ、仔猫の前へと持っていく。刹那、仔猫は無我夢中でお椀の中のミルクを飲み始めた。
「名前、どうしようかな」
私は、そんな仔猫の様子を見ながら一人ぽつりと呟いた。
*****
翌日、私はいつものように学校へと通った。今日からは期末テストが始まり、学校も午前中で終わる。テストの間は、涼香たちもテスト勉強やカンニングの方法を模索するのに手いっぱいであるためか、さすがに手は出して来なかった。
このまま何事もなく終わる、平和な一日。こんな日がずっと続けばいいのに。
テストを終えた放課後に入り、私はそのことを強く思いながら、それと同時に未だ名前が決まらない仔猫に会いたい思いをも募らせる。
いろいろ検討した末に彼――家に連れ帰ってから確認してみると、去勢手術をしていない雄猫であった――は、私の部屋のクローゼットの中で隠れるように生活することになった。動物嫌いの母さんに見つかったらどうなるか分からないためだ。昨日のうちに有り合わせのお小遣いで猫用のトイレやキャットフードを近くのお店から調達し、仔猫がどうにかクローゼットの中でも生活できるようにある程度工面した。これで長い間もつとは自分でも思わないが、ひとまず母さんの目をごまかすための一時しのぎにはなる。残酷なようだが、私がよりよい方策を考え出すまでの間、仔猫にはそれで我慢してもらうしかなかった。最悪、母さんとの交渉も視野に入れる必要がある。
早く仔猫に会いたい。私の思いは次第に強くなる。
すると、後ろで誰かが私の肩を軽く叩いた。思わず身体を背後に翻すと、そこには彰人くんがはにかんだ笑みを浮かべながら立っていた。
「佳子、これからちょっとだけいいか」
「えっ、いいけど……どうかしたの?」
「それは……ここじゃあ離せないから、場所を移そう」
そう言うや否や、彰人くんは私の手を取ってすたすたと教室を後にした。彼に連れられて、私は体育館裏の一角にやって来た。そこは、一面に張り巡らされた体育館のコンクリートの外壁と学校の塀とで両側を挟まれており、人の目があまり入ってこない場所であることは一目瞭然だった。
「おい、連れてきたぞ」
彰人くんが、そこで待っていた人影に声をかける。人影は、ゆっくりと私たちの方へと歩み寄りながら、口角を歪に上へと吊り上げた。
「なんだぁ、誰かと思ったらあんたなの。『あたしの』彰人くんを横取りしようとするインラン女は」
無邪気な様子でそう口にする人物――涼香の顔を目にして、私は全身の体温を奪われる感覚を覚えた。何で、どうして涼香がそこに。『わたしの』彰人くんって、どういう意味なの。
私は、無意識に彰人くんの顔を覗き込む。彼の口からは、獣のように熱く短い吐息が漏れ、両目は私の全身をすみずみまでくまなく観察していた。いやな感覚だ。普段彼と話しているときに感じているそれとはまったく違う。早くこの場から離れたい。そう思っても、私の手を握る彼の手は、どうやっても離れようとはしなかった。
怖い。
何だかうまく表現できないけれど、気持ち悪い。言い知れぬ恐怖が私の脳を支配する。やがて、彰人くんの両手が私の身体にまとわりつき、それぞれ私の胸、内腿へと絡まっていく。私の耳に、彰人くんと涼香の会話が、どこか遠い世界のもののように響く。
――ねえ、言っとくけどこれはあくまで「お仕置き」だから。あたしより夢中になったら許さないからね。
――うるせえよ。そもそも言い出したのは涼香、お前だろ。わざわざこんなところまで呼び出させといて、あとでたっぷりお礼はしてもらうからな。
――いいじゃない。これからこの子の処女をじっくり味わうんだから。むしろ得した気分でしょ。
――別に。誰が、こんなブスとわざわざやりたいかっての。お前の頼みだから聞いてるんだぜ。
やがて、私の身体を地面に荒々しく押し倒した彰人くんの唇が、私のそれと重なった。強引に舌を入れてくる感覚に、吐き気をもよおしそうになる。さらに、私の内腿を触っていた彰人くんの手は、少しずつ上へ上へと這っていき、とうとう私の下着に触れた。
この先に待っているものは、容易に想像が付く。
いやだ。
いやだ。
いやだいやだ、いやだ。
こんなの、あんまりだ。辛い。悲しい。悔しい。
誰か、助けて――。
私の視界が、涙でぼんやりと霞んでいく。それでも、目の前にいる二人の歪んだ笑みだけは、いやに鮮明に映った。私は堪らず、喉からあふれ出るさまざまな感情を、力いっぱいに吐き出す。
「いやあああああああああーっ!!!」
私が叫ぶと同時に、私は自分の腰に張り付いていたものの感覚を失い、そこから待ち受ける恐怖に身体を小さく震わせた。