二の篇
その日の放課後。私は、ホームルームが終わるや否や、涼香たちが迫ってくる前に素早く帰り支度を済ませ、こそこそと隠れるようにして帰路に着く。これも、いつもの日常の一端だ。初めは何だか自分が悪いことをしているみたいで気が引けたのだが、慣れればどうということはない。日が暮れるまで毎日暴力を振るわれていた日々を思えば、ずっとましだ。
そうして、私が足早に校門を出て行こうとすると、私を呼ぶ男の子の声がした。
「あれ、佳子じゃん。もう帰るの」
私が思わず振り返ると、そこには彰人くんが立っていた。白一色で統一されたシャツと短パンに、青いタオルと中身の入ったペットボトルを両手で持った様子からして、どうやらサッカーの部活動に向かうようだった。
ああ、暑い。彼は一言そう呟くと、右手に持ったタオルを上気した顔に当てた。顔に張り付いた玉状の汗を乱暴に拭い去ったあと、小さく溜息を吐いた彰人くんの精悍な顔を見て、私の心臓はにわかに高鳴った。
「う、うん。彰人くんは、もしかしてこれから部活?」
私は、彰人くんにたどたどしい口調で尋ねる。彼の所属するサッカー部は、再来週から県の大会があると聞いていたが、その前に明日から数日間にわたり期末テストが行われるのだ。テスト週間となっている今日は、部活動は原則禁止となっているはず――そう思案していると、彰人くんは半ば気だるそうにしながらも応じた。
「部活というか、自主練。これから暑い中、校庭をぐるっとランニング。ほんとはさぼりたいけど、先輩に必ず来いって言われてるから、しゃあなしに。正直やってらんねーよ」
「そうなんだ。もうすぐ大会だから、いろいろたいへんだね。熱中症には気をつけてね」
「ありがと。それじゃ、俺もう行くから。じゃあな、佳子」
そう言うと、彰人くんは左手をぶらぶらと振りながら校庭の方へと走り去っていった。私は、そんな彼の背中をしばしの間見つめてから、学校を後にした。
*****
家路をとぼとぼと歩きながら、私は今晩の夕食について思案していた。
今晩もまた、カップラーメンにしようかなあ。ただ、そんなにお金もあるわけじゃないから、贅沢は出来ない。無難に食パン一枚だけ――けれど、それではすぐにお腹が空く。
頭の中で私のさまざまな欲が渦を巻き始めたところで、どこからかかわいらしい声が響いた。
にゃあん。
私が声のした方角へと顔を向ける。断続的に繰り返し聞こえてくるその声は、民家と民家との間に配置されたゴミ捨て場の一角にある、薄汚れた箱型の段ボールから発せられているようだった。
私は声の発信源である小さな段ボールへと歩を進め、その中をゆっくりと覗き込む。二、三枚ほどの古新聞が底いっぱいに敷き詰められたその上に、小さな茶トラの仔猫がちょこんと座っていた。この状況を一見すれば、捨て猫であることは明らかだ。生後三、四ヶ月ぐらいと思しき細身の捨て猫は、両方の瞼を閉じながらにゃあん、にゃあん、と幾度も鳴いている。
「こんにちは、猫ちゃん」
私は、文字通り猫なで声で仔猫に呼びかける。仔猫は、にゃあん、にゃあんと鳴くばかりで、特別私に反応を示すわけではなかった。ただひたすら、何かを希求するように。時折弱々しく響きを湛えながらも鳴き続けている仔猫を前にして、私は思わずその子を抱き上げた。ふわふわと、やわらかい感触が両手に伝わってくる。
「よく見たらかわいいね、猫ちゃん。ねえ、良かったら私の家に来ない? 大したものはないけどさ、ミルクぐらいならあげられるよ」
私がそう言うと、仔猫はぴたと鳴くのを止めて、代わりに欠伸を一回すると、ぐうぐう喉を鳴らして私の腕に頭をすり寄せてきた。仔猫の行動に気を良くした私は、その子を胸の前へとしっかり抱え込んだ。仔猫は私が予想していたよりも素直に抱っこされ、そればかりか自分の顔を私の胸へとぐいぐい近づけていった。
「もう、本当にかわいいんだから。ほら、こっちだよ。家に着いたら、すぐミルクを入れてあげるね。後でご飯も買ってきてあげる。だけど、母さんに見つかったらたいへんだから、静かにしててね」
私は、仔猫とともに再び家路を進み始める。心なしか、私の歩調は先ほどよりも軽くなったように感じた。