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化猫  作者: 天神大河
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一の篇

 アルミでできた四角形の箱が、一瞬だけ鋭い悲鳴を上げる。それはタイルの床で一度だけ小さくバウンドすると、中に含んでいたものを吐き出しながら上下逆さまに倒れこみ、そのまま動かなくなった。

 半ば箱の下敷きになる形で床に散乱した白いご飯やブロッコリー、冷凍食品で賄ったミニハンバーグをじっと見ていた彼女は、それらを指差しながら、無邪気な口調で私に告げる。



「ねぇ、佳子(よしこ)ちゃあん。お弁当、食べないの?」



 栗色に染めた髪を胸のあたりまで伸ばした彼女――涼香(りょうか)は、私に向けてピンク色の長い舌を出した。それはまるで、漫画などで見かけるいたずらっ子の仕草そのものだ。程なくして、彼女とその周りに控えている三人の取り巻きが、くすくすとくぐもった笑いを洩らす。



「ああ、あんた、いっつもトイレで弁当食ってんでしょ。知ってんのよ。あたしたちに隠れて、こそこそ個室のトイレで便所飯。毎日毎日、よく飽きもしないで。どうせ同じトイレで食べるんならさ、ほら、トイレの床に散らばったもの食べても一緒じゃん。ねえっ?」



 涼香が口の端に下卑た笑みを浮かべる。周りの取り巻きも、彼女に合わせて同じ笑みを作り出した。


――どうしたの、早く食べなよ。

――おなか、空いてたんじゃないの?

――はやく、はやく。


 笑顔を崩さないまま、四人は矢継ぎ早に言葉を畳み掛ける。そんな涼香たちの瞳は、次に私が取るであろう行動への期待と、それに対する侮蔑との二色に染まっていた。一見背反するそれらの欲求が合わさって醸し出す、目に見えない狂気が彼女たちの全身から漂う。

 その圧力に耐えられず、私は思わず涼香たちから目を逸らした。私の視界に、先ほど涼香の手で床へと落とされた弁当箱と、その中に入っていたものとが映る。昼休みに入る直前まで掃除が行われていたトイレの床は、雨が降った時の地面のようにずぶ濡れであり、窓から入ってくる陽光が白い粒状の光を美しく反射させていた。そこに歪に散らばった汚物を見て、私はぐっと息を呑んだ。


 三ヶ月前にこの高校に入学してから間もなく始まった、私へのいじめ。最初は、同じ教室の生徒全員からの無視や、殴ったり蹴ったりの暴行が主だった。昼休みに食べる弁当も、何度ごみ箱に送られたかはわからない。

 そうして、私はいじめの主犯格である涼香たちから逃げるように、昼休みの間は人目に付かない南校舎の女子トイレの個室にこもるようになった。昼食を持って、それを隠れるようにして食べて。それを何週間も繰り返して、今日も同じことを繰り返す――はずだった。いつものように女子トイレのドアを開けて、涼香たちの顔を目にするまでは。


 それから、どれくらいの時間が経ったんだろう。私が涼香たちの要求に対してなかなか首を縦に振らないでいると、取り巻きの一人がしびれを切らしたのか、スリッパの音をけたたましく鳴らしながら、私の元へと歩み寄ってきた。そのまま、私の頭のてっぺんを掴み、黒い髪を強く引っ張る。



「もたもたしねぇで、さっさと両手を床に着けて食えよ! うっぜぇくっせぇブスが! おら、早くやれよ! 動物みてーによぉ!」



 頭頂部で走る鋭い痛みに悲鳴を上げるより先に、取り巻きの女は乱暴に私の身体を床へと叩きつけた。全身に鈍い痛みを感じると同時に、しとどに濡れた制服が肌に張り付く。さらに、私がうつ伏せの体勢となったのを見計らったかのように、他の取り巻きの女も私へと駆け寄ってきた。彼女たちはそれぞれ、馬乗りになって私の背中に圧しかかったり、私の口を強引にこじ開け、食物の前へ顔を近づけたりした。


 私の眼前に、少し黄褐色に染まった白米が現れる。そこから漂う生暖かい湿気と、かすかな尿臭が私の鼻腔をつうんと刺激した。取り巻きの女が、徐々に私と米との距離を縮めていく。そんな私の耳に、楽しげにハミングをするかのような涼香の高い声が響いた。



「ほらほら、食べなよ。佳子ちゃん。せっかくあたしらが世話してやってんだからさ。あたしらさ、ト、モ、ダ、チ、でしょ? だから、食べてくれなきゃ、いやだからね」



 そして、私の唇にご飯が触れた。もう逃げられない――そう観念した私は自分から舌を伸ばし、白米を口いっぱいに含んだ。ゆっくりとそれを噛みしめていくごとに、甘味と酸味が歪に交じり合うのを感じ取る。



「あーっ、ほんとに食べちゃったよ、佳子ちゃん」

「きゃはははっ、佳子ちゃん、きったなーい。超ウケルー」

「ねえ佳子ちゃん。いつものことだけど、先生にちくろうとするのはなしだからね。もしやったらどうなるか、分かってるよね」



 取り巻きの女たちの不快な笑い声を耳に挟みながら、私は口内の物を一息に嚥下する。そのまま、次を求めて顔を伸ばしていった。穢い空気を吸い込まないように息を止めながら、私は獣みたいな体勢のまま、二口目を口に含んだ。



 五感に響くいやな感覚を必死で抑え込み、ただ涼香たちの命令に従う。これが、私の学校生活のすべてだった。

 けれど、あと数日でそんな生活から解放される。夏休みだ。あと数日、それさえ乗り切れば、仮初めとはいえ平和な時間が訪れる。だから――それまでの辛抱だ。そう自分に言い聞かせながら、私は今日も涼香たちの体の良い家畜として一日を費やしていった。

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