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第二章 置文と願文 4.

4.


 高氏の部屋に続く回廊には、高氏の正室・登子とうこが立っていた。

 その穏やかな様子に、直義は違和感を持った。

 直義に気づくと、登子はまだ娘のような顔に華やいだ微笑を浮かべ、会釈を寄越した。


「義姉上、兄上のご様子は?」

「殿は書きものをしておられます、直義様」


 鈴を転がしたような明るい声で登子が応じる。

 どう見ても、夫が勘気を起こして困っている奥方には見えなかった。


「書きもの?」


 直義がちらりと後ろを見遣ると、師直も同じように眉を寄せていた。


「師直を急ぎ呼ばれていたのでは?」

「執事殿を呼んだのを、小者が大げさに告げたのでしょう」


 師直が前へ出た。


「では私めが御用を……」

「いえ」


 先へ進もうとする師直を、登子は声と態度で跳ね除け、いささか冷ややかに告げた。


「直義様がお戻りになられたら、知らせるようにとのお申し付けです。ここに直義様がいらっしゃったのなら、もう用事は済んでおります」


 師直は、お預けを喰らった犬のような顔になった。

 直義も釈然とはしなかったが、師直に下がれと顎をしゃくった。


「どうぞ、直義様」


 登子が道を開け、優雅に頭を下げた。

 近づくにつれ、高氏の部屋の様子が見えてくる。

 扉は開け放たれており、直義は兄が文机に向かっている姿を見つけた。

 戸の傍に立った直義に気付いているだろうに、高氏は顔を上げなかった。


「兄上」


 呼びかけても、高氏の視線は机の上の巻物にあった。


(なんで今頃古今集……)


 兄の見つめている繊細な文字の羅列をのぞきこむと、全身の力が抜けていくようだった。

 残りの気力が失われる前に、と直義は再び声を上げた。


「戻りました、兄上」

「あぁ、遅かったな」


 書籍から目を離さないまま、高氏が応じた。


「得宗館まで兄上を迎えに行ったつもりでしたが、道に迷いました」


 高氏がようやく顔を上げ、直義の顔を見つめた。

 兄弟は父母を同じにするが、顔立ちにはあまり似たところがなかった。

 高氏は坂東武者らしい鷲鼻で、黒目は大きく頬骨が高い父親に似ていることに対して、直義の目はどちらかといえば切れ長で、鼻筋も頬もおうとつがなく、京から嫁して来た母に似ているとよく言われた。


「目と鼻の先に迷ったと?」


 大きな眼でギョロっと射すくめられて、直義は苦笑を返した。


「あちらの館に着く前に、人の波に飲まれて運ばれて、気がつけば若宮大路を下っていた次第です」

「そうか。大した人出だったからな」


 高氏が納得したように頷いた。

 高氏は直義の言葉も、他の身内の言葉も、あまり疑うことをしない。

 周囲からは度量の大きさと取られるが、直義は兄の怠慢だと思っている。


(不都合が起こるなら、その前に、俺や師直が口出しするのを知っているのだ)


 ……かと言って放っておけば、ことさら面倒な事態が起こりかねず。

 便利に使われるのが分かっていても、口を挟まない訳にはいられないのが現状だった。


「兄上は見たのですが? 高時殿と踊っていたという『怪異』とやらを」

「いや、ちょうど私がお館を出た時、背後から悲鳴が聞えてきた」

「それは上々」


 直義の相槌に、高氏の辛気臭い声が被さった。


「……大望のある身を、神仏や先祖代々の御霊が守ってくださったのだろう」


 高氏は、どこか暗い目になって、近くにあった数珠を手に取った。

 直義は、またかと、うんざり思った。

 だが高氏が、こうまで信心深くなったのにも理由がある。


 足利家には、八幡太郎義家の『置文』というのが代々伝わっていた。

 そこには、この世に未練があったのか、単なる血気盛んからか、


『七代後の子孫に生まれ変わって天下を取る』


 という義家の誓いが記されている。

 直義にしてみれば、四代目に当たる頼朝公が天下を取った時点で、この誓いは果たされているとものだと思う。

 だが、数えて七代目の子孫、高氏・直義の祖父に当たる家時は、そうは思わなかった。

 幕府の実権が、源氏以外の者――北条に奪われている現状を鑑みて、この『置文』が己と無関係とは思えなかったらしい。

 家時は、北条に逆らえぬ己の不甲斐なさを恥じ、


『我が命を縮める代わりに、三代の孫までに天下を取らせたまえ』


 という『願文』を残し、自害してしまった。

 無論、幕府へは当たり障りのない死因で届けたが、子や孫には重い執念が降りかかってきた。

 直義に言わせれば、『とてつもなく迷惑な話』で、家時から三代目の孫である高氏にしてみれば、『神仏にでも縋りたい』気持ちになっても止むをえないだろう。

 家時の息子、二人の父親の貞氏が、高氏の補佐として直義を付け、くれぐれも『兄を助けよ』と念を押したのは、こういった事情も斟酌しんしゃくされている。


 重責を背負わされた身としては、背負わせた先祖の守りが、少し位はあってもいいと思う。

 兄の身に何もなかったことには、ほっとしつつも、様子を見に行って怪異に巻き込まれた自らを省みて、直義は皮肉な気分になった。


(騒ぎの中、好んで屋敷を出た迂闊な子孫など、見捨てられても仕方ないが……)


 いや見捨てられてはいなかったか――直義は、己を救った僧侶の、ひっそりとしたたたずまいを思い出した。


「そうだ、兄上。この辺りで、徳のある僧のいる禅寺といえば、どこですか?」


 度を越えた信心の果て、明日にも出家しかねない兄ならば、近在の寺の事情に明るくとも不思議はない。


「ようやくお前にも、神仏の加護の大切さが分かったか」


 高氏は嬉しそうに、手にした数珠をじゃらじゃらと合わせた。

 高氏と比べ、直義は殆ど神仏に祈らないし、神仏を当てにしない。

 時として話が通じない相手は、兄だけで充分だった。


「…寺なども霊験が新たかと聞くぞ」


 予想通り、高氏は直義の知らぬ寺の名を、次々挙げていった。

 直義は慌てて遮るように尋ねる。


「それらの寺の中に、年のころ四十を過ぎたあたりの、小柄だが存在感のある僧侶はおりませんか?」

「なんだそれは?」


 高氏は眉を寄せて直義を見た。


「いや、若宮大路で難儀した折り、世話になりまして……」


 天狗に襲われた処を助けられた等と言ったなら、精進潔斎の末、寺に篭められかねなかったので、直義は省略した。


「名をお尋ねせんかったのか?」


 非難めかしい言葉に、直義は頭を下げた。


「奥ゆかしいご様子で、こちらで尋ねる前に去られてしまいました。ただ、俺の顔は知られていたようです」

「ふむ。足利縁ゆかりの僧侶なら、お前に名乗るのを忘れんだろう。だとすれば、北条家の関係か……」


 高氏は何か思い当たるところがあったように、不意に固い表情になった。



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