第二章 置文と願文 3.
3.
直義の住まう対屋と、当主の寝所がある本殿とは、多少距離がある。
「お聞きしておりませんでしたが……直義様、此度の足利荘での首尾は如何に?」
回廊を進む直義の後ろから、師直がこそりとした声で問い掛けて来た。
師直も、高氏の勘気の理由が直義だと、思い至ったのだろう。
「問題はない。義助とはきちんと会って確約を取り付けた」
義助こと脇屋義助は、新田義貞の実弟の名だった。
直義は振り返らず、簡潔に答えた。背後から、ほっと安堵したような息を吐く音が聴こえた。
「さすがはご舎弟」
反射的な返答の後、はっとしたように師直は付け加えた。
「だけど、本当に気を付けて下さいよ。今がどれだけ大事な時か。直義様に分からん道理はないでしょう?」
恨むような言葉に、まあな――と、直義は適当に相槌を打って、投げやりにつぶやいた。
「一族存亡の時だ」
大袈裟だが、ただの事実なのが笑えない。
「お分かりなら」
「だからこそ、多少はめをはずしたくなるものかもな」
「そのようなこと……」
言い掛けて、師直が口をつぐんだ。思い当る節が己にもあるのだろう。
足利は長い間、北条一族の下にいた。
北条は執権、幕府の執事だ。
翻って、足利は源氏の棟梁の裔。
本来であれば、北条の主筋と肩を並べる家柄で、今の状況は、報復して然るべき状態であった。
(ただ、あまりにも長い間、足利は北条に隷属してきた)
代々の当主に北条の姫を娶り、あくまでも臣下としてではあったが、優遇されてきたと言えるだろう。
現在の当主、高氏の妻も北条の名門、赤橋の出だ。
領地を離れ、鎌倉の屋敷で暮らすことが多かった高氏、直義兄弟には、北条一族の公達は、慣れ親しんだ遊び相手だった。
荘園の視察に赴くという理由で、直義が密かに会見を重ねている『新田』も、足利と同じく、源氏の棟梁の血を引く一族だ。
足利とは領地も隣接している。
新田はその昔、頼朝公が挙兵する際遅参したことで、鎌倉幕府にはそもそも初めから冷遇され、今でも蔑ろにされていた。
そんな新田と比べ足利は、この裏切りで失うものが少なくなかった。
「貴方様でさえ『そう』なら、殿に至っては、考えたくありませんなぁ」
師直の口調は軽いものだったが、どこか切実な響きもあった。
直義の兄・高氏は、足利の惣領であるが、感情の揺れ幅が異様に大きい。
突然、
『己には武家の棟梁たる資格がない』
と寺に籠ったり、得宗からの理不尽な命令を冷静に聞いていたかと思うと、いきなり
『おのれ、高時ぃ!』
と叫び、血管を何本も浮かび上がらせるのは日常茶飯事だ。
二代前の当主である、兄弟二人の祖父も、カッとなったら手がつけられなかったというから血筋かもしれない。
「下手に突つくなよ」
今更ごねられても困る――と、直義は胸で加える。
代わりに口には、自らに言い聞かせるためにも、達観した言葉をのせた。
「大丈夫だ。兄上は、切り替えが上手い」
一族を率いていく自信がないと、床板を凝視しながらぶつぶつ呟いていた次の瞬間、
『父の喪にも服させないとは何たる侮辱か!』
と刀を取って、幕府に乗り込みに行こうとした時もあった。
慣れていないと、何かに取り付かれた様な挙動に見えるが、片側だけを見れば猛々しい武家の棟梁だった。
「できれば、雄々しいままでいてほしいものですねえ」
師直の物憂げな言葉に、舌打ちを抑えて直義は振り返った。
「だから、俺とお前が動くんだろう」
苦々しげに返すと、師直ははっとした顔で、激しく頭を上下に動かした。
「そうでしたね! 直義様がいて、本当に良かったですよ」
直義は不機嫌に口元を曲げると、ふいっと前へ向き直った。
気の浮き沈みが激しい兄と一緒に育てられたためか、直義は一歩引いたものの考え方をするようになった。
それが思慮深く見えて、
『直義が惣領でもよいのではないか』
という声が、昔から少なからず家中にあった。
この時代、次の惣領は先代が決める。
長子だからと言って、必ずしも選ばれるとは限らなかった。
同母で一つ違いという気安さもあり、高氏、直義兄弟は、ほぼ一緒に、総領として身に着けるべき教育を受けてきた。
『感情の起伏が激しいが威厳のある兄と、冷静で聡明な弟』
二人の父、先代の総領・貞氏も最後まで迷った末、当主は高氏と定めた。
ただし直義も他家には出さず、兄を補佐するようにと言い渡した。
――兄弟の不仲は家を割る。
何代にも渡り親子兄弟で争ってきた、源氏の血みどろな歴史が、それを雄弁に物語っていた。
だからこそ、直義は完璧に「兄を助ける弟」であらねばならなかった。
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…家を継がなかった主家の子は、親戚や家臣の家に養子として入り、そこの家を継ぐことが多かったようです。
…子供は家長となれるし、もらった家としても主家とつながりが深くなるしで、普通に歓迎されていたとか。
…そう考えると聡明だった直義が、足利に残ったというのはやはり何かあったと考えてしまいますね。