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* 『観応の擾乱』……辺りの考察 

※主に『観応の擾乱』の考察です。

※読まないでも話には関係ありませんが、あれからどうなったか知っておくと、面白いかもしれません。






■中先代の乱から先の時系列


1335年~

・中先代の乱勃発、足利本隊鎌倉へ。

・尊氏と後醍醐帝決裂。

・後醍醐帝、新田を鎌倉に派遣。

・足利、新田を破り上洛。


(この辺りから1336年)


・足利、後醍醐軍(顕家、正成、義貞)に敗れる。

…特に奥羽から下ってきた顕家の勢いが凄かったです(-_-;)。


・足利、九州へ逃れ力を貯める

・足利、湊川で楠木正成を破る。

・足利、再上洛。後醍醐帝を退位させ、光明天皇を帝位につける。

・後醍醐帝、吉野に逃れ『南朝』を建てる。


~これより『南北朝の動乱』が始まります。

…後醍醐帝を逃がしたのは尊氏の甘さなんで、尊氏のせいと云っても良いかもねー。


1338年 北畠顕家、新田義貞戦死。

 ※南朝方の千種忠顕、名和長年もこの年に亡くなってます。


…つまり、南朝方の人物が、どんどんいなくなってるわけです。


1339年 後醍醐帝没。後村上天皇即位(南朝)


…最期まで戦う気まんまんだった後醍醐帝は、決して降伏するなと言い残します(-_-;)


1348年 楠木正行(南朝)戦死。


…南朝(敵)方は、殆ど無力になりました。

…そうなると北朝(足利)には武力がいらなくなり、政治にベクトルが傾きます。

…ということでこの辺りから、『観応の擾乱』です。


1349年~

・直義(政道)と師直(軍事)対立。


…自分の弟と右腕が険悪なムードになっているのに、尊氏さんが何をやっていたかというと、何もやってないんですよ(笑)

…どっちにも付けない、ってゆーより、日和見乙(:_;)。


・直義方が敗れる

(文VS武なんだから、そりゃそうだよなあ(-_-;))


・尊氏仲介で、師直と直義の間で和睦の条件を結ぶ。

(こういう時のために中立でいたんだよ。byたかうじ)


・師直、和睦の条件を破り、直義の股肱の臣を殺害。

(これがのちのち師直の命取り)


・足利直冬、直義を助けるために中国地方で兵を挙げる

 →師直に蹴散らされる。

 →直冬、九州で勢力を拡大する。


…敵とした実父と同じように九州で勢いを盛り返すのが面白い、というか九州というのは、中央から追いやられた、名門の子弟を旗印にする慣習(戦法?)があったみたいです。


…直冬が去った後の九州も、義満の時代になるまで、後醍醐帝の息子である懐良親王が統一、支配することになります。

(足利義満はこの人を倒して、明と貿易を始め、巨万の富を得るわけです)


…懐良親王は南朝の呼び出し応ぜず、九州の王として君臨し、明と取引していたようです。顕家も後醍醐帝なんか放っといて、奥羽で義良親王(後の後村上天皇)と国作っちゃえば良かったのにねぇ~

(それやったら顕家じゃないか……(:_;))


…横道にそれましたが、直冬もそのまま放っとくと、九州で国作っちゃいそうだっていうんで…


・尊氏、直冬討伐軍を自ら率い出陣。


 となりました。


…実の息子を(朝敵呼ばわりして)征伐しに行ったわけです。

…まー、これでブチ切れたのか


1351年 足利直義、南朝と結ぶ。


 となります。


…尊氏や師直が、各地で兵を挙げた直義派の武将を討つために、北朝の天皇の綸旨をもらってるんで、それに対抗するために南朝の天皇の綸旨を、ってことです。


…これも凄い発想、というか行動力なのですが、この関係はかなり薄っぺらいものでした。


1月 直義、京に進軍。留守居の義詮は京を捨て尊氏の元へ。

2月 直義軍、尊氏軍を破る。


…戦上手の尊氏が負けるのは、ありえない話に思えますが、これは尊氏にというか、師直の高一族に対する不満が高まっていた結果とも見えます。


…南朝の主な武将は殆ど高一族に討たれてますから、この時は南朝の残党も頑張ったわけです。


2月 和睦の条件、『師直の延命』が守られず、師直謀殺。


…前回の和睦の際、直義の臣下を討った師直を、その臣下の身内が討ち果たしました。因果ですね…。


…当然高氏は『因果』では気が治まる筈もなく、直義派を崩しにかかります。


そして


10月 尊氏、南朝と和議を結び、直義追討の綸旨を貰う


となります。


…直義の南朝寝返りも離れ業でしたが、これは……なんとゆーか、ウルトラCとゆーかダブルトウループとゆーか、すげー話なのです(゜゜;)。


 尊氏は和議の条件として以下を了承します。


・北朝の解散(帝、皇太子、関白など)

・年号も北朝の『観応』から南朝の『正平』へ。

・三種の神器も南朝に渡す


 …これが世に言う『正平の一統』(「統一」かと思ったけど統一はしてないか)。

 …つまり、自分で作った北朝を見捨てたわけです。


 とは言っても、北朝も南朝もお互いに条件を、守るつもりも守られるつもりも、なかったみたいで、これから先(義満の時代、1392年まで(:_;))も泥沼の争いが続きます。


 後世でも結構非難された『正平の一統』ですが、自分は尊氏の武将として(超)非凡なところが、よく現されたエピソードだと思います。


 要所要所で戦いを厭う困った将軍ですが、一旦戦うとなると手段を択ばない。

(やはり、この混沌の時代の唯一の勝者なんだなぁとしみじみ……)


 直義が没したのは、翌1352年2月。鎌倉円福寺だとされています。

 これで『観応の擾乱』は終ったのですが、尊氏の戦いは、まだまだ続きます(合掌)。


 直義の死と同時に、南朝が裏切り、楠木、千種、北畠、新田や脇屋、有名武将の子弟を動かし足利を攻めさせます。


(それでも尊氏が勝つんだから、どんだけ強いんだよ…というより南朝残党弱すぎ…(-_-;))


 直義の死因は尊氏による毒殺というのが主流ですが、直義が死んでも尊氏にとってなーんもいいことがなかったのが象徴的でした。


 本人もそれ知っているから、戦いたくなかったんだろうけど、そうやって争いを避け、直義や師直が何やっても諌めてこない結果が、この泥沼の内乱。

(もっと前に、きちんと後醍醐帝にとどめを刺せれば、少なくとも泥沼は避けられたんじゃないかと…)


 尊氏の評価に常に入る『優しさ』。

 人間としては良くとも、トップとしては最悪に働いた!と思ってしまった、『観応の擾乱』考察でした。








追記1)

・もちろん、直義にも悪い所いっぱいあるよー

・尊氏に勝っても、自分が最高権力者(将軍)になろうとしないし。

・直義にとって将軍は尊氏だけで、そのせいで味方も呆れて離れちゃったりして。

・動乱が長引いた原因の一つは、間違いなくここにもあります。



追記2)

・直冬は終盤の主役の一人になってますが、もう一人の尊氏の息子、義詮は、実質的に室町幕府作った人なのに、妙に影が薄い。

・かなり苦労した筈のポジションにいるんだけど、武勇は父親にも異母兄にも及ばず、政は叔父にも師直にも及ばない。

・義満までのつなぎ扱いが多いのも、『まー仕方ないかー』なんですね。

・でも運は凄い強い!幼少期の北条戦からそう。

・それに何度も何度も敗走してるけど、一度も捕まってない!これは身内の誰にも真似できませんね。



追記3)

・この時代の勝者は尊氏だけ!などと息巻きましたが、その他にも、実は『佐々木道誉』ってゆー、歴史上のトリックスターがいます。

・大河『太平記』では陣内孝則さんが演じていて、自分もこの人のイメージが強いです。

・北条高時に仕えて、後醍醐帝に仕えて……と足利と似たような道なんですが、足利にとっては、敵であり味方であり、敵で味方。

・本当に何度も裏切ってくれました。

・それでも、最後は尊氏に信頼されて、義詮の後見任されたりして……世の中分からんですよ。

・尊氏より15年近く長生きしてるし、この人が勝者かもですね~。






…まー勝手な妄想も混ざってますんで。

…歴史の流れはこーんな感じだったんだよ、くらいでお納めください。





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